初めてわが子の誕生を迎える時の大半の人々の思いは、
「とにかく無事に生まれてくれれば、もうそれだけでいい」
といったことではないでしょうか。
そして、まだ子どもが赤ちゃんの時には、朝が来るたびに、その笑顔を目にすることができるだけで喜びがこみあげ、
「生まれてくれてありがとう」
という思いが胸にひろがったりするものです。
けれども、成長を遂げて行く過程で、子どもが自分の思い通りに育ってくれている時には、そのような思いもある程度持続したりするのですが、時として子どもが道を逸れたり、あるいは自分の期待と違う道を歩み始めたりすると、いつの間にか誕生の瞬間の感動は消え去って
「何でこんな子が生まれてきたのか」
と、知らず知らずの内にため息をつくことがあったりします。
「仏説観無量寿経」
の中にも、王妃イダイケが、ダイバダッタに唆(そそのか)されたわが子アジャセによって夫ビンビサーラ王が城の奥深くに幽閉された時、
「私は、過去世のどのような罪によって、このような悪い子を生んでしまったのでしょうか」
と悲嘆にくれる箇所があります。
どれほど時代を経ても、わが子が自分の意に添わない時には、誰もが
「こんなはずではなかったのに…」
と、言いようのない寂しさに包まれてしまうようです。
確かに、子どもが親の期待通りに育ってくれると嬉しいものですが、しかしそうではないからといって、
「生まれてこなければよかったに…」
などとは、思うことのないようにしたいものです。
一方、私たちはどのような時に
「生んでくれてありがとう」
と感じるでしょうか。
人生は、自分の思い通りに行くことばかりではありません。
つまずいたり転んだりして行き詰まり、自分が自分であることが情けなくなって、布団をかぶって
「もう死んでしまいたい!」
と叫んだり、涙に枕を濡らす夜もあったりします。
あるいは、
「何でもっと賢く…」とか、
「容姿端麗に生んでくれなかったのか…」
と、親に愚痴ったり、親を呪ったりすることさえあったりもします。
もし、生まれる前にいろんな選択肢があって、
「男女どちらに生まれますか?」
「生まれる国や地域はどこが良いですか?」
「成人した時の身長や体重は?」
「得意分野は文系・理系、体育系・芸術系どのタイプにしますか?」
等といったアンケートがあればともかく、気がつけば既に誰もが
「私」
だったのです。
しかも、私たちの生きている事実は、一回限りで繰り返すことが許されず、誰に代わってもらうことも出来ず、どれほど永遠を願っても限りがあり、その人生の終わりはいつ私に訪れるか分かりません。
誰もが、このような四つの限定の上を生きているのです。
そうしますと、私たちが生きていく中で、
「生きる」
と本当に自分で言い切れるような積極性を持ち、あるいは充実感を持ち、そして一年を振り返って、あるいは一日を振り返って、
「ああ本当に生きた」
と自分のいのちを生活の中で実感するような感覚を持つことが出来なければ、なかなか自分が生まれたことを喜ぶのは難しいのではないでしょうか。
思えば、私たちの一生は、事実は死に向かっての人生にほかなりません。
しかしながら、その内実は
「生まれる」
という事実を一刻一刻と生きて行く生き方があります。
それを
「往生」
といいます。
「往」は往く
「生」は生まれる、
つまり毎日「往き生まれ」
て行くのです。
まさに、いのちが終わるその瞬間まで生まれ続けていくのです。
それは、悲しみにあえば、悲しみを通して、悲しまなかった時の自分ではなくて、悲しむ自分に新しく生まれるのであり、辛いことがあれば、辛いときがなかった時の自分ではなくて、辛いことを引き受けて行くような新しい自分に生まれるのです。
そして、苦しみや悲しみや、いろんな経験の中の煩いや、時には死にたいような思いや、いろんな経験のすべてを新しい自分に生まれる素材にしながら、いのちが終わる時まで生まれ続けていって、いのちの終わる時が一番新しい自分になって、
「生きてよかった」
と言える自分となって死んで行けるような人生を生きるとき、私たちは心から
「生んでくれてありがとう」
と言えるのではないでしょうか。