「親鸞聖人の仏身・仏土観」(6月前期)

自然といふは、自はをのづからといふ。

行者のはからひにあらず。

然といふはしからしむるといふことばなり。

しからしむといふは行者のはからひにあらず。

如来のちかひにてあるがゆへに法爾といふ。

法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆへにしからしむるを法爾といふなり。

「自然法爾」の手紙の

「はじめ」の文です。

自然とは

「自」

はおのずから、

「然」

はそのようにさせる、という意味です。

そしてその

「おのずからしからしめる」

働きが、如来の衆生をして仏果に至らしめるはたらきを指すのです。

そこでこの自然の道理に対する、人間の

「はからい」

が最も戒められます。

この手紙に

「行者のはからいにあらず」

という言葉が繰り返されますが、それは人間の側の

「はからい」

の完全なる否定であって、自然の道理に人は絶対に自らのはからいを加えてはならないことをかたく戒めておられます。

それは、なぜなのでしょうか。

「如来のちかひにてあるがゆへに法爾といふ」

いわれますが、衆生が仏果に至りうるのは、ただ法のしからしめるところ、如来の

「御ちかい」

の徳の故にほかなりません。

真如の法の必然のはたらきによってのみ、衆生は無上涅槃に至ることが出来るのです。

こうして、衆生をして

「おのずから」

仏果に至らしめる、真如のはたらきが

「自然法爾」

と呼ばれます。

親鸞聖人は、この真如と阿弥陀仏の関係を

「かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏とききならひてさふらふ」

と捉えられます。

真如の法は、一切の衆生を無上仏になさしめようと願われていますが、その無上仏の真理を衆生に知らしめるために、阿弥陀という仏が、衆生の

「はからい」

に先駆けて、法爾としてまします。

それ故に

「弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり」

と言われるのです。

この

「やう(様)」

とは様子、状態のことで、この場合、自然の道理とか本質といった意味になります。

また

「れう(料)」

とは、量りのこと、推し量ることであって、不明なることを明らかにする手段の意だと解されます。

そうしますと、阿弥陀仏とは真如が働いて、無上仏とは何かを凡夫に信知せしめるために出現した、真如そのものの

「はからい」

ということになります。

この真如のはからいこそが、

「弥陀仏の御ちかい」

にほかなりません。

そこで、この点を親鸞聖人はまた、

弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんとおもはぬを、自然とまふすぞとききてさふろふ。

と述べておられるのです。