「親鸞聖人の仏身・仏土観」(6月中期)

「阿弥陀仏の誓願」

とは、何でしょうか。

衆生に自らのはからいの一切を捨てさせ、

「南無阿弥陀仏とたのませて、その衆生を迎えようと、おはからいになっている」

この願意の全体が、

「南無阿弥陀仏」

という阿弥陀仏自体のすがたであり、このはたらきを

「自然」

申すのだと、親鸞聖人は聞いていると言われます。

では、親鸞聖人はこの真理を誰から、いかに聞き習われたのでしょうか。

『教行信証』

で、親鸞聖人は善導大師の

『往生礼讃』の

「深心釈」

を智弁の『集諸経礼讃儀』の文から引用され、

弥陀の本弘誓願は、名号を称すること、下至十声、聞等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るにおよぶまで、疑心あることなし。

と聞かれます。

善導大師の教えを通して、阿弥陀仏は本願に

「ただ名号を称せよ、必ず往生を得しめる」

と誓われていると見られたのです。

その称名は十声でも一声でもよく、その名号を聞くだけでもよいのです。

この弥陀の大悲の誓願を信知して、疑心のないものは、まさに阿弥陀仏の攝取の光明の中に生かされているのですから、往生は必定なのです。

なぜなら、善導大師の

「六字釈」

に明らかなように、

「南無阿弥陀仏」

の称名こそ、阿弥陀仏が一切の衆生を攝取するために、衆生に対し

「帰命し発願廻向している」

阿弥陀仏の本願力の躍動の相に他ならないからです。

この阿弥陀仏の願意を

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたる」

と手紙に述べておられますが、この称名思想が、親鸞聖人が

「行巻」

の全体を通して問題にしておられるところの、極めて独自な親鸞聖人の念仏思想だといえます。

今ここで、二、三の類似表現をひろってみることにします。

一。

弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候なり。

二。

行と申は本願の名号をひとこゑとなへてわうじゃうすと申ことをききてひとこゑをもとなへもしは十念をもせんは行なり。

三。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけまひらすべしと、よきひとのおわせをかぶりて信ずるほかに、別の子細なきなり。

周知のように

『無量寿経』

の第十八願には

「至心信楽欲生我国乃至十念」

と、衆生の往因として

「三心と十念」

が誓われています。

善導流の浄土教一般では、この三心と十念の関係を、真実清浄の信心をもって、一心に阿弥陀仏の浄土への往生を願い、ただひたすら念仏を相続することだと捉えています。