ところが親鸞聖人の思想には、このような表現は見られません。
往因を問題にされる場合には、
「ただ信じる」か
「ただ念仏する」
かのどちらかに限られています。
しかも、親鸞聖人の思想の特徴は、この信心と念仏に関して、衆生の信じ方や称え方をまったく問題にされない点にあります。
つまり、親鸞聖人は真実の信心と念仏を、人間の精神現象の面でとらえようとはしておられないのです。
なぜなら、親鸞聖人は迷える凡夫の心には
「一片の真実心」
も無いと見られたからです。
これは当然の理であって、凡夫の迷いは、真実心がないことから生じています。
もし真実心があれば、迷いは生じません。
今日の真宗教学でも、真実の信心でもって本願を信じるとか、真実信心をもって称名するというようなに、
「真実の信心」
という精神現象面が強調される場合がありますが、少なくとも親鸞聖人の著述においては、そのような凡夫の精神現象面での
「真実信心」
のあり方は全く述べられてはいません。
それは、凡夫の心には、精神現象面での
「真実の心」
はありえないからで、そのことについては
『一念多念文意』に、
凡夫といふは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおほく、怒り腹立ち、そねみねたむこころ、おほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず。
と説かれ、また
『歎異抄』にも
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、
と語られていることによっても明らかです。
この故に親鸞聖人は、本願の三心と十念を、衆生が往生するための、凡夫自身がなすべき行為としての、信心と念仏とは見ないで、
その三心と十念を、阿弥陀仏が衆生を往生せしめるための、仏の大悲心であり、大行であると解釈されたのです。
『教行信証』の
「行巻」と
「信巻」は、
この阿弥陀仏の大行と大信の構造を論理的体系的に語っておられるのですが、いま問題にしている
「自然法爾」
もまた、この点が問われているのです。