私たちにとって、自分自身の人生は、誰しも自分のみのものであり、しかもただ一回きりのものです。
だからこそ、私たちは例外なしに、ただ一回きりのこの人生を素晴らしいものにして、喜びの中で生きなければならいと言えます。
では、そのことを実現するためにはどうすればよいのでしょうか。
何よりもまず、正しい願いを持つことが大切です。
どのような人生が自分にとって、最も素晴らしい人生になるのかというと、正しい人生観・世界観でもって、自らの人生のあり方を問い、何としてもこのような人生を築きたいとの願いを持つことが第一に必要になります。
けれども、それが単なる願いだけで終わってしまったのでは、全く意味がありません。
その願いは、同時に深い情熱と強固なる意志を通して、実行に移されなければなりません。
正しい願いに正しい行為が伴い、そのような懸命なる実践がなされて、初めて自分にとっての素晴らしい人生が開かれることになるのではないかと言えます。
「願行」
とは、
「願いと行為」
という意味です。
仏道も、この私たちの人生と全く同じで、迷い苦悩する心を破って、歓喜と安心に満ちた仏の悟りの心を得るためには、何としても仏に成りたいという一心の願いとその願いを完成させるための必死の努力、命がけの行があって初めてその道が開かれることになるのです。
このように見ますと、仏教は
「願と行」
の二つの柱から成り立っているといえます。
このように、
「願行」
を共に兼ね備えること(願行具足)が仏道の最も基本となりますから、仏教が最も嫌うことは、そのどちらかが欠けていること、
「唯願」
あるいは
「唯行」
だけの立場になることです。
願だけであるならば、いかにその願が正しく偉大であったとしても、この者はその場から一歩も動くことはできませんし、また
「行」
だけなら、いかに懸命に努力したとしても、もし間違った方向に進んでいれば、この者は永遠に迷い続けなくてはならないからです。
では、私たちの仏教、浄土教では何を願い、いかなる行をなせばよいのでしょうか。
すべての仏教者の願いは、苦悩の原因を破って悟りに至ることです。
ところが、残念ながら、この世はあまりにも矛盾に満ちており、現実の世界で清浄真実の心になることは不可能です。
そこで、次の世において、真実清浄なる阿弥陀仏の浄土に生まれ、仏になろうとするのが浄土教だといえます。
したがって、浄土教者の
「願い」
とは、我が身をなげうって、阿弥陀仏に帰依し、一心に阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願うことです。
「行」
とは、その阿弥陀仏をひたすら念じ、その仏の名号を称え続けることになります。
ところで
「南無阿弥陀仏」
と念仏を称えているとき、その
「南無」
の語は、私自身がすでに阿弥陀仏に帰依し、その浄土に生まれたいと願っている、その心の表白を示す言葉ですから、
「南無阿弥陀仏」
には自ら願行が具足されていることになります。
そこで、善導大師や法然聖人は、ただ称名念仏すれば、そこには自ら一心願生の心が具していると教えられました。
「南無」
とは、私たちが阿弥陀仏を一心に信じますという、誓いの言葉です。
したがって、南無という以上は、一心に阿弥陀仏を信じていなければなりません。
ところで、念仏している私自身を顧みますと、はたしてその念仏に一心に願生し、純一に阿弥陀仏を信じるという心が常に伴っているでしょうか。
親鸞聖人は、私たち凡夫の心を
「いかりはらだち、そねみねたむ心のみで、臨終の一念まで消えない」
と述べておられます。
私たちの心は常に乱れて、死の一瞬まで清浄真実な心で念仏を称えることなど不可能だとされているのです。
そうだとしますと、私自身には、仏になりうる
「願行」
など存在しないといわなければなりません。
だが、この迷える衆生こそを、阿弥陀仏は救うべく、
「南無阿弥陀仏」
の名号を衆生に与えてくださっているのです。
そうだとしますと、
「願行」
そのものが、阿弥陀仏から与えられていることになり、念仏しているそのことが、阿弥陀仏の願行に摂取されている姿そのものだといえます。
そこで、弥陀の本願から廻向された念仏を信じることが、私自身の願行具足の念仏になるのだといえます。