それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣(さしお)きて、選んで浄土門に入れ。
浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛(なげう)ちて、選んで正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍(かたわ)らにして、選んで正定をもっぱらにすべし。
正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。
称名はかならず生ずることを得。
仏の本願によるがゆゑに。
親鸞聖人は『教行信証』に法然聖人の『選択本願念仏集』から、いわゆる
「三選の文」
を引用されます。
最初の
「それすみやかに生死を離れんと欲はば」
とは、もし、今、迷いの心を破り、仏果に至ることを願うのであればということです。
そうであれば、生死を離れる道は、ただ仏道しかありません。
ところで、その仏道に二つの勝れた道があるといわれます。
それは、聖道門と呼ばれる道と浄土門と呼ばれる道です。
このように二つの道があるのですが、今、直ちに生死を離れたいと欲するなら、今しばらく聖道門をそのままにして、浄土門を選べといわれます。
ただし、浄土門にも、正と雑の二つの道があるというのです。
したがって、この浄土の門に入っても、直ちに仏果を願うなら、正雑の二つの行の内、必ず正行を選べといわれます。
ここでいう正行とは、善導大師によって明らかにされた五つの行、つまり読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五つの正行です。
善導大師は、この五つを浄土往生の正行としておられます。
これに対して、往生するために座禅をするとか、千日の回峰行をすることなどは雑行と呼ばれます。
ところで、法然聖人は、これらの五つの正行の中にも正と助の二つの業があるから、この内の助業を傍らにして正定業を選べと言われます。
正定業とは、言うまでもなく称名を指します。
ですから、称名以外の四つの業が助業です。
では、なぜ称名が正定業なのでしょうか。
「称名はかならず生ずることを得」
るからであり、また
「仏の本願によるがゆゑ」
なのです。
称名はまさしく往生の業であるから、仏は本願に称名せよと誓われるのであり、このように本願に誓われているからこそ、称名することがまさしく往生の行業となるのです。
この文章に
「選ぶ」
という語が三回出てきます。
「選び」
とは、まず仏と仏の
「選び」
だといえます。
その根本は、阿弥陀仏の選びです。
阿弥陀仏が一切の宝蔵の中から、念仏一行を選んで、衆生に与えられた。
ここに最大の選びがあります。
そして、この選びを次に釈迦仏が受けるのです。
称名念仏こそが、一切の衆生を仏果に至らしめる行であり、その念仏の教えを出世本懐の教えとして説かれたのが『無量寿経』です。
ここに釈迦仏の選びが見られます。
そして、さらに釈迦仏の選びを受けて、釈迦仏によって説かれた仏果への道の中から、私の唯一の仏果への道として、私が念仏一つを選ぶことになるのです。
この選択の構造を、法然聖人が明らかにされ、その称名念仏の選びを親鸞聖人が受け継がれることになります。