「教行信証」の行と信(10月中期)

このことは、親鸞聖人が獲信することによって、往相の真実と還相の真実が、聖人ご自身の中で明らかになったということを意味しています。

往相と還相の真実が、親鸞聖人の中で明らかになった。

それ故に、今問題なのはどこまでも往相の念仏の行者ということになるのですが、ただしこの者に還相の真実も同時に明らかになったということは、浄土に生まれた衆生が浄土で何をなすかが明らかになったということです。

つまり、浄土での自分の姿が見えることになるのです。

浄土に生まれた瞬間、阿弥陀仏によって誓われた第二十二願の本願の力によって、浄土に生まれた者は、その瞬間に再びこの穢土に還って来ることを明らかに知ります。

しかも、再びこちらに還ってきた還相の菩薩が、この世で何をするのかということも知るのです。

還相の菩薩がこの世ですることは、ただ一つです。

それは、五念門を行じることです。

還相の菩薩が、この世で五念門行を成すのです。

五念門行とは

「礼拝、讃歎、作願、観察、廻向」

の五つですが、今はその廻向の実践の中にあるのですから、廻向行の中で同時に礼拝、讃歎、作願、観察の実践行が行われることになります。

もちろん、還相の菩薩自身が自分のために礼拝、讃歎、作願、観察の行をする必要はありません。

では、この五念門行とはいったい何なのでしょうか。

自分のための行でないとすれば、それはまさにこの五念門行は

「他の衆生のために」

ということになります。

浄土に生まれた還相の菩薩は、この世に還り来たってまず有縁の人の心に入り、礼拝、讃歎、作願、観察をなさっていることになるのです。

そうだとしますと、今度は現実に生きているこの私の問題になるのですが、その還相の菩薩の廻向行が、今まさに自分の心身に満ち満ちていることになります。

還相の菩薩の功徳が、私の体の中に満ち満ちているのです。

私が手を合わせる時、それは還相の菩薩が私と共に手を合わせて下さっていることを意味します。

私が念仏を称える時、還相の菩薩が私をして念仏を称えさせて下さっているのです。

私が、浄土について考える場合も同様です。

還相の菩薩が、私に阿弥陀仏の心を作願せしめているのです。

なぜ、愚かな凡夫である私に、阿弥陀仏を思う心が生じるのでしょうか。

それは、ひとえに還相の菩薩の種々の方便によって、私の心に阿弥陀仏を念ずる心が生じるからだと言えます。

このように、私の念仏の全体を還相の菩薩がせしめている利他行だと信知する心が、ここに生じることになるのです。

このように見ますと、浄土教の教えをより身近に感じることが出来るようになるのではないでしょうか。

私たちは、阿弥陀仏によって救われると教えられています。

けれども、阿弥陀仏はやはり、私にとっては遥か彼方にまします存在でしかありません。

十刧の昔に法蔵菩薩が阿弥陀仏になり、その南無阿弥陀仏によって救われるから有り難いと言われますが、実際に有り難いと実感するのは至難のことです。

それは、誰も阿弥陀仏を知り得ないからです。

「だからこそ、釈尊がお生まれになったのだ」

と言われますが、その釈尊もまた二千五百年も前にお生まれになられた方です。

したがって、釈尊と私の関係もまた、遥かに遠いといわなければなりません。