同様に、現代においては、親鸞聖人や蓮如上人の大遠忌法要が営まれても、共に七百五十年、あるいは五百年以上も前に亡くなっておられますので、お二人が私の念仏となって輝いておられると聞いても、なかなか実感することは出来ません。
けれども、もし自分の身近に亡くなった方が浄土に生まれて、いま現に私の念仏となって燦然と輝いているということになると、どうでしょうか。
私の念仏が、亡くなった祖父や祖母、あるいは父や母によって支えられている。
そのような実感が生じると、この念仏は非常に温かくなります。
本来宗教とは、温かさを有するものであるといえます。
そしてその温かさが、具体的に分かることが必要です。
そうしますと、亡くなった父や母であれば、私と共に一生懸命に念仏を称えてくれている、と思うことは可能です。
その姿を具体的に見ることも出来ますし、また温かさに触れることも出来ます。
浄土真宗では先祖崇拝を否定しますが、それは念仏を我が物として、その功徳を先祖に振り向けようとするあり方を問題にしているのです。
決して、先祖を敬い大切に思うことを否定しているのではありません。
また、父や母が、そしてご先祖の方々がいま、この私に何をして下さっておられるかを、もし具体的に味わうことが出来れば、それは素晴らしいことになるのではないかと思われます。
私たちが、仏壇に向かって手を合わせる、そこに還相の菩薩としてのご先祖のはたらきを見ることが出来れば、阿弥陀仏についての難しい教説を聞くよりも、よほど直接的にお仏壇に対して温かみを感じることが出来るのではないでしょうか。
親鸞聖人の教えは、非常に難しく厳しいのですが、その中に限りない温かさが組み込まれています。
廻向の思想がそれですが、殊に還相の廻向において、親鸞聖人ご自身が礼拝の中に、浄土に生まれた菩薩が親鸞聖人をして礼拝せしめているすがたをご覧になっておられます。
南無阿弥陀仏と称えることにおいても、浄土に生まれた菩薩がこの私を讃嘆せしめているととらえられます。
そして、作願においても観察においても同じような表現がとられます。
このことは、私が称えている念仏の全体が、還相の菩薩によって称えさせられていると理解しておられることを意味しています。
そうしますと、私が念仏と関わっている、まさにそのことが父とか母とかによって伝えられた法となり、ここにまことに温かい念仏の世界を味わうことができるように思われます。
だからこそ念仏者は、その法を喜びの心をもって人々に温かく伝えることが出来るようになるのです。
この大悲の行の躍動の姿が、つまるところ『教行信証』の構造ということになります。
このように見ますと、
「信巻」
から
「証巻」
への流れは同時的です。
そして、その
「証巻」
の中で、往相の廻向の証と、還相の廻向の証が明かされます。
往相廻向の証とは、往相廻向の行・信・証の構造であり、還相廻向の証とは、もちろん獲信の念仏者の還相廻向の証なのですが、この世の念仏者は未だ死んではいませんから、関係ありません。
それ故に、還相の問題は、既に往生された方々が、この現実の私にどう関わられるかが問題になるのです。