8.「信巻」の序
浄土真実の行は、獲信の念仏者のみが実践し得るということなのですが、その獲信とは何かがこれから問題になります。
ところで
「信巻」
を問題にするに際して、まず
「信巻」
の序に注目したいと思います。
それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起する。
真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり
の言葉に始まるのですが、
「獲信」
とはこの
「信楽を獲得する」
ことを意味し、その獲信は私自身が一心に阿弥陀仏の法を聞くという、聞法によって私がその心を得るのです。
「真心を開闡する」
場合も同じです。
真実の心を開くのは、どこまでも私自身なのです。
獲得するのも開闡するのも私自身なのであって、私の主体がまさにここに関わっているのであり、私の主体を除いては獲信は有り得いのです。
したがって、何もしないで寝ていて獲信するということなどはあり得ず、自らが一生懸命に弥陀の本願と関わって、はじめて信心の獲得が可能になるのです。
ただしここで重要なのは、確かに私が獲得し、開闡するのですが、その獲得も開闡も
「如来選択の願心より発起す」
「大聖矜哀の善巧より顕彰せり」
と示されている点を見落としてはならないということです。
私たちの自覚内容からすれば、自分が
「信楽を獲信する」
ということは、自分の意識の問題です。
自分の意識で行じて、信を得るのです。
けれども、重要なのは信を得た瞬間に何が分かるかということです。
それは、自分が自分の力でつかんだのではなく、阿弥陀仏から与えられ、その真意が釈尊によって明かされたのだということが分かるのです。
今日の宗学では、よく
「せしめられる」
という表現が使われます。
この言葉を耳にしますと、自分は何もしなくても、向こうから勝手にやってくれるというような印象を非常に強く受けます。
浄土真宗では、ともすれば自分が何か一心に努力すると、それは自力だといわれることがあります。
そのために、出来るだけ自らのはたらきを消そうと努めます。
ところが、親鸞聖人の言葉には、自らすすんで積極的に
「する」
とか、あるいは
「すべし」
という表現が多く見られます。
さらに
「せよ」
という命令形さえ、しばしば見られます。
その一方、親鸞聖人は、自らの一心の求めを決して嫌ってはおられません。
つまり、努力することをいたずらに自力だといって否定してはおられないのです。
なぜなら、宗教とはあくまでも自分が一生懸命にそのことに関わるものだからです。
けれども、同時に親鸞聖人は、
「信楽を獲得する」
ととらえられながら、しかもその全体を阿弥陀仏の選択の願心より発起するのだと理解しておられます。
いわば、つかむことによって、逆に如来に摂取されている自分を知り得るのです。
開闡する場合も同じです。
その心こそ、釈尊の巧みな説法によって、その心が開かれたのだと信知するのです。
信心について理解する場合は、この点が非常に重要です。
それをもし、どこまでも自分自身の力で得たのだと錯覚しますと、そこには傲慢さが現れます。
この心こそ、逆に自性唯心に迷い沈む心になるのです。