今年の4月、仕事場の机や椅子をこれまでよりも大きなものと取り替えました。
また、それに合わせて、仕事をしながらBGMを聴いていたミニコンポも新調しました。
机と椅子が大きくなったことにともない、机周りのレイアウトの変更を余儀なくされることになったのですが、そのためにこれまで手を伸ばせばすぐに操作出来る位置にあったミニコンポは、私の身長よりも高い場所に置かざるを得ませんでした。
そのため、電源・再生などの操作ボタンは、手は届くものの自分の目で位置を視認することが出来ないため、当初は
「この辺りかな…」
と、手さぐりの状態で操作していました。
やがて
「ボタンの位置にラベルシールを貼れば、下から見えなくも操作出来る」
ことに気付き、早速テプラでシールを作って貼り付けました。
これだと、たとえボタンの位置は見えなくても、手さぐりをすることもなく、容易に電源を入れたり再生したりすることが出来るので、
「なかなかいい考えだ」
と、内心喜んでいました。
それから、一カ月余りが過ぎたゴールデンウィーク明け、日に日に日中の気温が高くなり、壁かけの扇風機を使うようになりました。
この壁かけ扇風機は、操作パネルが私の手の届かない位置にあるので、リモコンで電源を入れたり、風量の調節をしたりしていました。
そんなある日のこと、壁かけ扇風機に向けてリモコンの電源をオンにした際、その扇風機から1メートル足らずの距離にあるミニコンポが視界に入りました。
その時、私の頭の中にあるヒラメキが生じました。
「ミニコンポも壁かけ扇風機と同じようにリモコンで操作すれば良いのでは!?」と。
立ち上がってミニコンポの隣を見ると、スピーカーの脇にリモコンが置いてありました。
もちろん、その場所にリモコンを置いたのは、誰でもないこの私です。
早速リモコンに電池を入れて、椅子に座ったまま電源を入れ、次に再生のボタンを押すと、予めセットしているCDが回転して美しいピアノの調べが聴こえてきました。
その時、私に同時に二つの思いが浮かんできました。
一つは、座ったままで操作が出来るようになった嬉しさです。
そしてもう一つは、この一カ月余りの間、なぜこんな簡単なことに気がつかなかったのかという情けなさです。
気付いて見れば、とりたてて話題にするほどのこともない些細なことなのですが、これまで長年ミニコンポは手近な所に置いていたことから、
「手で操作する」
というのが、私にとっては
「当たり前」
のことになっていました。
そのため、従来の固定概念を離れることが出来ず、置き場所が変わって視認できなくなったボタンを押すためには
「シールを貼る」
という対応をすることで、
「創意工夫した!」
と自己満足していたのです。
ところが、壁掛け扇風機を使うようになったことで、
「ミニコンポもリモコンで操作すればいいんだ!」
ということに思いが至ったのですが、実はそれまで壁掛け扇風機が視野に入らなかった訳ではないのです。
壁掛け扇風機を用いたのは昨年の夏以来のことではなく、暖房の温風を室内で循環させるために、冬の間中もずっとリモコンの操作をしていたのです。
にもかかわらず、これまで
「ミニコンポは、自分の手で操作する」
ということが状態化し、固定概念化していたために、置き場所が変わって、使い勝手が不便になっても、その
「当たり前」
という思いをなかなか離れることが出来ずにいたのでした。
そんな自分の出来事を通して、ふと一つの説話を思い起こしました。
ある時、お釈迦さまはお弟子のチューダ・パンタカに箒を与え、掃除をしながら
「塵を払わん、垢を除かん」
と繰り返し唱えるように命じられました。
チューダ・パンタカは、掃除をしながらこの言葉を繰り返す内に、いつしかその意味について深く考えるようになりました。
そして、やがてこの払うべき塵とは心の塵のことであり、除くべき垢とは心の垢であることに目覚めました。
このいつとはなしに心に積もってしまう塵とは、自分の経験したことのみを絶対的なこととして誇る自負心や驕慢心のことであり、どこからともなくにじみ出てきて肌を覆ってしまう垢とは、自分の行動や考え方について執着する心であると伝えられています。
「ミニコンポは手で操作するもの」
という自分の考え方に執着する心を離れることが出来ず、それどころか、シールを貼ることで
「いい考えだ」
と自負していた自分の姿は、まさに心に積もった塵やにじみ出てきた心の垢によっておおわれていた姿そのものなのでした。
今回は、たまたま自ら気がついたのですが、おそらく、このようなことは私の中にまだまだ他にもたくさん埋もれているのだと思います。
仏法に耳を傾けることを通して、少しでも心の塵やはらい心の垢を除くことに勤めたいと思えた出来事でした。