以前、ある先生からお説教の中で聴かせていただいた話ですが、三重県のいなべ地方では今でも葬儀のおりに、赤飯と唐辛子汁を参詣された方々にふるまう習慣があるそうです。
この習慣は、いのちが終わるとき、必ず仏に成らせていただくことの喜びを
「赤飯」
で表し、一方で別れの悲しみと涙をなかなかのども通らない程の辛い
「唐辛子汁」
で表しているのだそうです。
これは浄土真宗の教えを大切にし、み教えを中心とした中で生きてこられた方がたの中で生まれた習慣、風習といえるのでしょう。
この話をご法事の際に私もさせていただいたことがあるのですが、その時お参りされていた方が、
「実は先日、三重県いなべの親戚が亡くなりお葬式に参ったのですが、先生が今言われた通り、たしかに唐辛子汁が出てびっくりしたところでした。でも赤飯はでませんでしたよ」
と、言われました。
それはその時たまたまだったのか、限られた地域の事なのか、詳しい事情はわかりませんが、
『もしかしたら「葬儀に赤飯なんて不謹慎な…」という考え方になってしまったのかなぁー』
と、あくまで私の勝手な想像ですが、感じた事でした。
浄土真宗の教え、生き方とは世間の感覚では非常識に見えることも多いのでしょう。
「門徒物知らず」
という言葉があります。
他の御宗旨では檀家といいますので、門徒というだけで、浄土真宗門徒を表しています。
浄土真宗の盛んな土地では、日本社会で当たり前に行われている様々な習俗が行われていないことを物語っています。
例えば、友引の日に平然と葬儀を勤めることや、家族の者から死者が出でも清め塩などの物忌みをしない事など、日本社会で当たり前に行われていることを、浄土真宗の門徒はその教えに生きていく中で受け入れてこなかったのです。
これは世間からみれば、浄土真宗門徒は、常識を知らないということになるでしょう。
世間の「常識」とされているものは、大多数の人びとが正しいと判断しているものであり、逆に非常識とされるものは、大多数の人びとが受け入れていないものです。
けれども、多くの人びとが正しいと思っていることが、必ずしも本当に正しいことであるとは限りません。
仏さまの眼からみれば人というのは、自分中心のものの見方で自分自身が正しいと思い込んでいる、大変危うい存在であるのかもしれません。
間違いを正しいと思い込んで行動していることほど、恐ろしいことはありません。
私自身の大切ないのちの問題を、世間的な常識か非常識かに委ねるのではなく、み教えの中に聞きひらいていった先人の生き方を、門徒として、仏弟子としてお互いに大切にしていきたいものです。