「源氏調伏」
の祈願は、そうして、叡山の日課として、日々、くりかえされていた。
仏燈の油や、壇の費(つい)えを惜しまず、誦経、梵鐘の音は、雲にこたえ、谷間にひびいた。
いかなる魔魅も、こういう人間の一念な行には、近よりがたいであろうと思えた。
しかし、行の座にすわる僧たちの心には、今の平家に飽きたらぬものや、不平こそあるが、国家改革の新しい源氏とよぶ勢力に対して、なんの恨みもないのである。
調伏の灯は、壇に満ち、誦経に喉は嗄(か)らしていても、それは、職業としてやっているに過ぎなかった。
司権者の命令であるし、近衛摂政からのお沙汰というので、【やらねばなるまい】でやっているお役目であった。
形式的な、勤めであった。
その一七日(いちしちにち)の勤めが終わったので惣持院(そうじいん)の学寮に、若い学僧たちが寄り集まって、
「ああ」
伸びをしたり、
「肩がこった」
と、自分で叩いたり、
「麦餅(ばくへい)が食いたいな」
と食慾をつぶやいたりして、陽溜(ひだま)りに、くるま坐を作って、談笑していた。
ひとりが、どこからか持ってきた麦餅を、盆に盛って、
「喰べんか」
自分が先に、一枚とって、ばりばりと噛む。
「もちっと、塩味があると美味いのだが、この麦餅は、麦の粉ばかりじゃないか」
「ぜいたくをいうな、塩でも、なかなか近ごろは、手に入らぬ」
「せめて、塩ぐらいは、われわれの口へも、豊かに入るような政治が欲しいものだ」
「今になるよ」
「源氏が天下をとればか」
「ウム」
「武家の天下の廻り持ちも、あまり、あてにはならん。――天下をとるまでは、人民へも、僧侶にも、いかにも、善政をしくようなことをいうが、おのれの望みを達して、司権者の位置に就くと、英雄どもは、自分の栄華に忙しくなって、旗を挙げた時の意気や良心は、忘れてしまうよ」
「それでも、現在のままでいるよりはましだ」
「この叡山の上から見ていると、栄華の凋落(ちょうらく)も、一瞬の間だ。まったく、浮世の変遷というものが、まざまざとわかる」
「つい昨日までは、天下の春は、六波羅の政庁と、平氏一門に集まって、平氏の家人でなければ、人にあらずといわれていたのが、今日は、源氏調伏の祈願に、浮身をやつしていなければならないとは、なんという醜態(しゅうたい)だろう」
「笑止、笑止」
学僧たちは、手を打って、笑いあった。
「南都の大伽藍(だいがらん)を焼き払ったり、大仏殿の炎上を敢えてしたりした平家が、その仏にすがって、調伏の祈願をするとは、何という勝手なことだ」
「先には、十禅師の神輿(しんよ)さえ、踏み躙(にじ)った、あの羅刹(らせつ)どもが、祈願をしたとて、何の効(かい)があるものか」
学僧たちの話しているのを聞けば、むしろ、平家調伏の声であった。
すると、実相院の朱王房(しゅおうぼう)という若い堂衆(どうしゅう)がいった。
「あまり、自己を、侮蔑(ぶべつ)するな、聞き苦しい」
「何だと、朱王房」
学僧たちの眼は、彼の顔にあつまった。