短檠(たんけい)の丁字を剪(き)って、範宴が、ふたたび、机の上の白氏文集へ眼を曝(さら)しはじめると、
「さ……水を汲んできた。足を洗いなさい」
と、入口の方で、また、物音と人の気配がした。
やはり、狐(こ)狸(り)ではなかった。
範宴は、すこし、燭の位置を移して、うしろへ身をのばしながら、
「性善坊か」
すると、はっきり、
「ただ今帰りました」
彼の返辞であった。
すぐ上がってきて、
「範宴さま。ただいま、戻って来る途中で、ふしぎな人に会いました。後ろにつれて参りましたから、お会いして下さいまし」
といって、
「孤雲どの。こちらへ」
と、呼んだ。
怖る怖る、庄司七郎の孤雲は、そこへ来て、うつむきがちに坐った。
範宴は、小首をかしげて、
「はての?」
「おわかりになりませんか」
「知らないお方だ」
孤雲は、その時、しずからに顔を上げて―――
「ああ、よう御成人なさいましたな」
「あ。……七郎か」
「やはり覚えていらっしゃった」
と、孤雲は、ぼうぼうとした髭(ひげ)の中で、うれしげに、微笑した。
「忘れてなろうか、糺の原で、あやういところを、救うてくれた庄司七郎……。あの時、そなたは、なぜ逃げたのか」
「その仔細は――」
と、性善坊がひき取って、
「途々(みちみち)、聞いてきたところでございまする。私から、代わって、お話いたしましょう」
範宴は、眼をつぶらにして、聞いていた。
そして、
「ほう……、では、日野の学舎(まなびや)でこの身と共に机をならべていた寿童丸は、いまでは、行方が知れぬのか」
「里のうわさによると、この叡山に、知人があるゆえ、戦がやむまでその辺りに、隠れているのではないかと申すのだそうで」
「座主に、お願い申して、よう尋ねてあげよう」
「ありがどうぞんじます」
「だが――」
と、性善坊は側から――
「この叡山には、三千の学僧と、なお、僧籍のない荒法師やら堂衆やら、世間を逃げてきた者たちが、随分と、一時の方便で、身を変えているものも多いゆえ、容易には、知れまいと思うが……」
「ま……。いつまでも、おるがよい」
と範宴はなぐさめた。
孤雲は、ともすると、燭に面(おもて)を伏せてしまった。
――もう五、六年も前になるが寿童丸の腕白から、まだ、十八公麿といったころのこの君が、土で作っていた仏像を足蹴にかけたことだの、日野の館へ石を投げこんで罵りちらしたことだの……過去を思い出すと、背なかに、冷たい汗がながれる。
だが、範宴も、性善坊も、そんなことは、さらりと、忘れたように、
「孤雲どの、空腹(すきばら)ではないか」
と、いたわる。
「はい……実は……」
と、ありのままに答えると、
「では、粥(かゆ)でも、煮てあげい」
範宴がいう。
やはり菊の根には菊がさき、蓬(よもぎ)の根には蓬しか出ぬと、孤雲の七郎は、旧主の子と、範宴とを心のうちで較べて、さびしい気がした。