朝はまだ早かった。
霧に濡れている一山の峰や谷々で、寺の鐘が、刻(とき)をあわせて、一斉に鳴りだした。
揺するように、横川(よかわ)で鳴ると、西塔や、東塔の谷でも、ごうん、ごうん……と鐘の音が答え合った。
「おや、当院の鐘は、どうしたのじゃ」
西塔の如法堂で、学頭の中年僧が、方丈(ほうじょう)から首を出した。
「鐘楼(しょうろう)へは、誰も行っていないのか」
「けさの番は、朱王房です、たしか参っているはずです」
と、中庭を隔てた学僧の房で、多勢(おおぜい)の学僧たちが、新しい袈裟をつけながら返辞した。
「耳のせいか、わしには、聞えんが……」
「そういえば、鳴らんようです」
「困るではないか。今日は、根本中堂で、範宴少納言の授戒入壇式が、おごそかに上げられる日だ」
「吾々も、これから、阿闍梨について、参列することになっています」
「それよりも、一山同鐘の礼を欠いては、当院だけが、中堂の令に叛(そむ)く意志を示すわけになる。
台教興隆のよろこびの鐘だ。
――誰か、見てこい」
「はっ」
学僧の一人が、駈けて行った。
鐘楼の下から仰ぐと、誰かそこに立っている。
腕ぐみをして、ぼんやりと、鐘楼の柱に凭(もた)れているのである。
つい一昨年(おととし)ごろ、坂本から上って来た若者で、はじめは、房の厨(くりや)中間(ちゅうげん)として働いていたが、なかなか、学才があるし、賤しくないし、少し才気走った嫌いはあるが、感情家で負け嫌いなところから、堂衆に取り立てられて、今では学僧の中に伍している朱王房だった。
今朝は、彼が鐘楼役なのに、そこへ上ったまま、腑抜(ふぬ)けのように腕ぐみをしているので、見に来た彼の友は、
「おいっ、朱王房じゃないか」
下から怒鳴った。
朱王房は、上から、なやりと笑った。
しかし、元気がないので、
「どうしたっ」
と訊ねると、にべもない顔つきで、
「どうもしやしない……」
「なぜ、礼鐘を撞(つ)かん?」
「…………」
「知らぬはずはあるまい。――今朝の一山同鐘を」
「知ってる」
「横着なやつだ」
とととと、石段を駈け上がって行って、
「退(ど)けっ、俺が撞く」
と、朱王房の肩を押しのけた。
「よし給え」
「なんだと」
「いまから撞いたって、間に合いはしない」
「じゃ、貴様は、故意に撞かなかったのだな」
「そうだ」
はっきり、朱王房はいった。
持ちかけた撞木(しゅもく)の網を離して、気色(けしき)ばんだ彼の友は、朱王房の胸ぐらをつかんで睨みつけた。
「不届きな奴だ、承知して怠ったのだ聞いては許されんっ、さっ、来いっ」
ずるずると、段の方へ、引きずった。