親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(6)

朝はまだ早かった。

霧に濡れている一山の峰や谷々で、寺の鐘が、刻(とき)をあわせて、一斉に鳴りだした。

揺するように、横川(よかわ)で鳴ると、西塔や、東塔の谷でも、ごうん、ごうん……と鐘の音が答え合った。

「おや、当院の鐘は、どうしたのじゃ」

西塔の如法堂で、学頭の中年僧が、方丈(ほうじょう)から首を出した。

「鐘楼(しょうろう)へは、誰も行っていないのか」

「けさの番は、朱王房です、たしか参っているはずです」

と、中庭を隔てた学僧の房で、多勢(おおぜい)の学僧たちが、新しい袈裟をつけながら返辞した。

「耳のせいか、わしには、聞えんが……」

「そういえば、鳴らんようです」

「困るではないか。今日は、根本中堂で、範宴少納言の授戒入壇式が、おごそかに上げられる日だ」

「吾々も、これから、阿闍梨について、参列することになっています」

「それよりも、一山同鐘の礼を欠いては、当院だけが、中堂の令に叛(そむ)く意志を示すわけになる。

台教興隆のよろこびの鐘だ。

――誰か、見てこい」

「はっ」

学僧の一人が、駈けて行った。

鐘楼の下から仰ぐと、誰かそこに立っている。

腕ぐみをして、ぼんやりと、鐘楼の柱に凭(もた)れているのである。

つい一昨年(おととし)ごろ、坂本から上って来た若者で、はじめは、房の厨(くりや)中間(ちゅうげん)として働いていたが、なかなか、学才があるし、賤しくないし、少し才気走った嫌いはあるが、感情家で負け嫌いなところから、堂衆に取り立てられて、今では学僧の中に伍している朱王房だった。

今朝は、彼が鐘楼役なのに、そこへ上ったまま、腑抜(ふぬ)けのように腕ぐみをしているので、見に来た彼の友は、

「おいっ、朱王房じゃないか」

下から怒鳴った。

朱王房は、上から、なやりと笑った。

しかし、元気がないので、

「どうしたっ」

と訊ねると、にべもない顔つきで、

「どうもしやしない……」

「なぜ、礼鐘を撞(つ)かん?」

「…………」

「知らぬはずはあるまい。――今朝の一山同鐘を」

「知ってる」

「横着なやつだ」

とととと、石段を駈け上がって行って、

「退(ど)けっ、俺が撞く」

と、朱王房の肩を押しのけた。

「よし給え」

「なんだと」

「いまから撞いたって、間に合いはしない」

「じゃ、貴様は、故意に撞かなかったのだな」

「そうだ」

はっきり、朱王房はいった。

持ちかけた撞木(しゅもく)の網を離して、気色(けしき)ばんだ彼の友は、朱王房の胸ぐらをつかんで睨みつけた。

「不届きな奴だ、承知して怠ったのだ聞いては許されんっ、さっ、来いっ」

ずるずると、段の方へ、引きずった。