山蔭の土牢の口には、雑草が蔓(はびこ)っていた。
じめじめとした清水が辺りを濡らしていた。
牢の口は、そこらの木を伐って、そのまま組んで頑丈に組んである。
誰やら、暗い中に、人影がうごいているようだった。
ふつうの音調を失って、獣じみた声で、何かいった者は、その土牢の中の人間で――
「そこへ来たのは、十八公麿ではないか。やいっ、耳はないのかっ」
と、叫ぶのである。
もう忘れていた幼名を呼ぶばかりでなく、悪気(わるげ)のこもった罵り声に、範宴も性善坊も、ちょっと、胆を奪われて立っていた。
すると、牢の内からはする声は、いよいよ躍起となって、
「俗名を呼んだから返辞をせぬというのか。だが俺は、いくら貴様が、入壇したからといっても、まだ乳くさい十歳やそこらの洟っ垂れを、一人前の沙門(しゃうもん)とは、認めないのだ。――座主が、いくら勿体らしく大戒を授けても、一山の者が、座主におもねって、盲従しても、俺だけは、認めないぞ」
そう一息にいって、また、
「だから俺は、十八公麿と呼ぶ。――貧乏公卿のせがれ、なぜ、返辞をせぬのか。――がたがた牛来車で、日野の学舎に通ったころを忘れたのか。いくら澄ましても、俺のまえでは駄目だぞ、何とかいえっ」
自身が、こっちへ来ることも、迫ることもできないだけに、何とかして、明るい中に立っている二人を、自身の牢の前まで引きつけようとして、必死なのであった。
声の魔魅(まみ)の力すら覚えるのだった。
じっと、遠くから見ていた性善房は、牢の口に、顔を押しつけている獣のような眸を見て、思わず、
「あっ!……」
と、驚きの声を放った。
範宴も、思い出して、
「おお」
牢の前へ、走って行こうとするので、性善房は、袂(たもと)をとらえて止めた。
「お師さま。寄ってはなりません!寄ってはなりません!」
「なぜ、なぜ?」
範宴は、その袂を、振りもぎろうとさえするのであった。
「その中にいるのは、悪魔です。悪魔のそばへ、寄っては、お身のためにならないからです」
「悪魔?……」
と、範宴は、牢にかがやいている二つの鋭い眸を見直して、
「悪魔ではない。あれは、日野の学舎で、わしと机をならべていた寿童丸じゃ」
「いいえ。……それには違いありませんが、今では、西塔の堂衆で、朱王房という悪魔です。その側(わき)に立っている高札をごらんなさい」
と、性善房は、指していった。
―――この者、元坂本の中間僧たりし所、西塔の学僧寮に堂衆として取り立てられ、朱王房と称しおる者なり。
しかる所、近来浅学小才に慢じ、事ごとに、山令に誹議(ひぎ)を申したて、あまっさえ、範宴少納言入壇の式に、その礼鐘の役目を故意に怠り、仏法を滅するものは仏徒なりなど狂噪(きょうそう)暴言(ぼうげん)を振舞うこと、重々罪科たるべきに附(つき)、ここに、百日の禁縛(きんばく)を命じ、謹んで業悪を謝せしむる者なり
西塔諸院奉行
「おわかりでしょう。怖ろしい悪魔です。近づかない方が、お身のためです」