「よくも人を打(ぶ)ったね」
遊女は、怒った。
性善房も怒っていた。
「あたりまえだ」
遊女はまけずに、
「人を打つのが当りまえなら私も打ってやる」
と手を出して、性善房の横顔を打つ真似したが、性善房は顔を避けて、
「けがらわしい」
とその手を払った。
今度は、ほんとに怒って、遊女は性善房の胸ぐらをつかまえた。
「何がけがらわしいのさ」
「離せ、僧侶に向って、不埒(ふらち)なまねをする奴だ」
「ふン……だ……」
と、遊女は嘲笑のくちびるを、柘榴(ざくろ)の花みたいに毒々しくすぼめて、
「坊さんだから、女は汚らわしいっていうの。……ちょッ、笑わすよ、この人は」
と、家のうちにいる朋輩の女たちをかえりみて、
「あそこにいる花扇さん、その隣にいる梶葉さん、みんな、坊さんを情夫(いろ)に持っているだよ。
私のとこへだって、叡山から来る人もあるし、寺町へ、こっちから、隠れて行くことだってあるんだよ」
「人が見る。離せ」
性善房が、むきになっていうと、
「そう。人が見るから、いけないというなら、話は分かっている。人が見てさえいなければいいんだろう。……晩にお出で」
と、女は、胸ぐらを離して、性善房の肩をぽんと突いた。
泥濘(ぬかるみ)に足を落して、性善房は、脚(きゃ)絆(はん)を泥水によごした。
「こいつめ」
いち早く、家の中へ逃げこんだ女を追って、何か罵っていると、露地の外で、
「性善房――」
範宴の呼ぶのが聞えた。
「はいっ」
彼は、大人げない自分の動作に恥じて、顔を赤らめながら、往来へ出てきた。
そして、範宴へ、
「とんだことをいたしました」
と謝った。
「ほかを探そう」
範宴が歩みだすと、
「ちょっと、お待ち遊ばせ」
と性善房は、師の法衣(ころも)の袂(たもと)をつかんで、そのまま、道(みち)傍(ばた)ちの井戸のそばへ連れて行った。
(何をするのか)と範宴は、だまって彼のするとおりにさせていた。
性善房は、井戸のつる瓶(べ)を上げると、師の法衣の袂をつまんで、ざぶざぶと洗って、
「さ……これでよろしゅうございます。不浄な浮かれ女(め)の手に、お袖をけがしたままではいけませんから」
と水を絞って、それから自分の手も洗って、やっと、気がすんだような顔をした。
それからはもう遊女の手につかまらないように注意して二人は歩いたが、脂粉のなおいは、袂を水で洗っても消えないような気がするのだった。
のみならず六条の館は、どう探してもみつからなかった。