「いつ、ご法体(ほったい)になられたのか」
範宴は、涙で、養父のすがたがみえなくなるのだった。
「……面影もない」
と昔の姿とひき比べて、十年の養父の苦労を思いやった。
性善房は、たまりかねたように、そこの門を押して入ろうとした。
「これ、訪れてはならぬ」
範宴は叱った。
そして、心づよく、垣のそばを離れて、歩きだした。
「お会なされませ、お師様、そのお姿を一目でも、見せておあげなされませ」
「…………」
範宴は、首を横に振りながら、後も見ずに足を早めた。
すると、鍛冶ケ池のそばに二人の若い男女が、親しげに、顔を寄せ合っていたが、範宴の跫音(あしおと)に驚いて、
「あら」と、女が先に離れた。
この辺の、刀鍛冶の娘でもあろうか、野趣があって、そして美しい小娘だった。
男も、まだ十七、八歳の小冠者(こかんじゃ)だった。
秘密のさざめ語(ごと)を、人に聞かれたかと、恥じるように、顔を赧(あか)らめて振りかえった。
「おや……?……」
範宴は、その面ざしを見て、立ちすくんだ。
若者も、びくっと、眼をすえた。
幼い時のうろ覚えだし、十年も見ないので、明確に、誰ということも思いだせないのであったが、骨肉の血液が互いに心で呼び合った。
ややしばらく、じっと見ているうちに、どっちからともなく、
「朝麿ではないか」
「兄上か」
寄ったかと思うと、ふたつの影が、一つもののように、抱きあって、朝麿は範宴の胸に、顔を押しあてて泣いていた。
「――会いとうございました。毎日、兄君の植髪の御像をながめてばかりおりました」
「大きゅうなられたのう」
「兄上も」
「このとおり、健やかじゃ。――して、お養父君も、その後は、お達者か」
「まだ、お会遊ばさないのでございますか」
「たった今、垣の外から、お姿は拝んできたが」
「では、案内いたしましょう。養父も、びっくりするでしょう」
「いや、こんどは、お目にかかるまい」
「なぜですか」
「自然に、お目にかかる折もあろう。ご孝養をたのむぞ」
すげなく、行きすぎると、
「兄上――。どうして養父上に、会わないのですか」
朝麿は、恨むように、兄の手へ縋(すが)った。
女は、池のふちから、じっとそれを見ていた。
処(むす)女心(めごころ)は、自分への男の愛を、ふいに、他人へ奪(と)られたような憂いをもって、見ているのだった。
「…………」
性善房は、すこし、傍(わき)へ避けて、兄弟の姿から眼を背けながら、ぽろぽろと、頬をながれるものを、忙しげに、手の甲でこすっていたが、そのうちに、範宴は、何を思ったか、不意に、弟の手を払って、後も見ずに、走ってしまった。