修行の山を下りて十年目の第一夜だった。
久しぶりで範宴は人間の中で眠ったような温か味を抱いて眠った。
眼をさまして、朝の勤めをすますと、きれいに掃かれた青蓮院の境内には、針葉樹の木洩れ陽が映(さ)して、初秋の朝雲が、粟田山の肩に、白い小猫のように戯れていた。
「性善房、参ろうぞ」
範宴は、いつの間にか、もう脚絆や笠の旅支度をしていて、草鞋(わらじ)を穿(は)きにかかるのであった。
「や、もうお立ちですか」とかえって、性善房のほうが、あわてるほどであった。
「僧正には、勤行の後で、お別れをすましたから」
と範宴は、何か思い断(き)るように足をはやめて山門を出た。
性善房は、笈(おい)を担って、後から追いついた。
すると、執事の高松衛門が、山門の外に待っていて、
「範宴殿、ご出立ですか」
「おせわになりました」
「僧正のおいいつけで、今日は、六条範綱様のお住居(すまい)へ、ご案内申すつもりで、お待ちうけいたしていたのですが――」
「ありがとう存じます」
「まさか、このまま、お発足のおつもりではございますまいが」
「いや」
と、範宴はゆうべから悶えていた眉を苦しげに見せていった。
「……養父(ちち)の顔を見たし、弟にも会いたしと、昨日は、愚かな思慕に迷って、一途に養父の住居を探しあるきましたが、昨夜(ゆうべ)、眠ってから静かに反省(かえり)みて恥かしい気がいたして参りました。
そんなことでは、まだほんとの出家とはいわれません。
僧正もお心のうちで、いたらぬ奴と、お蔑(さげす)みであったろうと存じます。
いわんや、初歩の修行をやっと踏んで、これから第二歩の遊学に出ようとする途中で、もうそんな心の緩(ゆる)みを起こしたというのは、われながら口惜しい不束(ふつつか)でした。
折角のご好意、ありがとうぞんじますが、養父にも弟にも、会わないで立つと心に決めましたから、どうぞ、お引きとり下さいまし」
「さすがは、範宴御房、よう仰せられた。――それでは、その辺りまで、お見送りなと仕ろう」
衛門は、先に立って、青蓮院の長い土塀にそって歩きだした。
そして、裏門の肩へと二十歩ほど、杉木立の中を行くと、小(ささ)やかな篠(しの)垣(がき)に囲まれた草庵があって、朝顔の花が、そこらに、二、三輪濃く咲いていた。
「きれいではございませぬか」
衛門は、垣の打ちの朝顔へ、範宴の注意を呼んでおいて、そこから黙って、帰ってしまった。
性善房は、何気なく、垣のうちを覗いて、愕然としながら、範宴の袂をひいた。
「お師さま。……ここでござりますぞ」
「なにが」
「ご覧(ろう)じませ」
「おお」
性善房に袖をひかれて、草庵のうちを覗いた範宴の眼は、涙がいっぱいであった。
姿は、ひどく変っているが、日あたりのよい草堂の縁に小机を向けて、何やら写(うつ)し物の筆をとっている老法師こそ、紛れもない、養父の範綱なのであった。