親鸞・去来篇 9月(2)

修行の山を下りて十年目の第一夜だった。

久しぶりで範宴は人間の中で眠ったような温か味を抱いて眠った。

眼をさまして、朝の勤めをすますと、きれいに掃かれた青蓮院の境内には、針葉樹の木洩れ陽が映(さ)して、初秋の朝雲が、粟田山の肩に、白い小猫のように戯れていた。

「性善房、参ろうぞ」

範宴は、いつの間にか、もう脚絆や笠の旅支度をしていて、草鞋(わらじ)を穿(は)きにかかるのであった。

「や、もうお立ちですか」とかえって、性善房のほうが、あわてるほどであった。

「僧正には、勤行の後で、お別れをすましたから」

と範宴は、何か思い断(き)るように足をはやめて山門を出た。

性善房は、笈(おい)を担って、後から追いついた。

すると、執事の高松衛門が、山門の外に待っていて、

「範宴殿、ご出立ですか」

「おせわになりました」

「僧正のおいいつけで、今日は、六条範綱様のお住居(すまい)へ、ご案内申すつもりで、お待ちうけいたしていたのですが――」

「ありがとう存じます」

「まさか、このまま、お発足のおつもりではございますまいが」

「いや」

と、範宴はゆうべから悶えていた眉を苦しげに見せていった。

「……養父(ちち)の顔を見たし、弟にも会いたしと、昨日は、愚かな思慕に迷って、一途に養父の住居を探しあるきましたが、昨夜(ゆうべ)、眠ってから静かに反省(かえり)みて恥かしい気がいたして参りました。

そんなことでは、まだほんとの出家とはいわれません。

僧正もお心のうちで、いたらぬ奴と、お蔑(さげす)みであったろうと存じます。

いわんや、初歩の修行をやっと踏んで、これから第二歩の遊学に出ようとする途中で、もうそんな心の緩(ゆる)みを起こしたというのは、われながら口惜しい不束(ふつつか)でした。

折角のご好意、ありがとうぞんじますが、養父にも弟にも、会わないで立つと心に決めましたから、どうぞ、お引きとり下さいまし」

「さすがは、範宴御房、よう仰せられた。――それでは、その辺りまで、お見送りなと仕ろう」

衛門は、先に立って、青蓮院の長い土塀にそって歩きだした。

そして、裏門の肩へと二十歩ほど、杉木立の中を行くと、小(ささ)やかな篠(しの)垣(がき)に囲まれた草庵があって、朝顔の花が、そこらに、二、三輪濃く咲いていた。

「きれいではございませぬか」

衛門は、垣の打ちの朝顔へ、範宴の注意を呼んでおいて、そこから黙って、帰ってしまった。

性善房は、何気なく、垣のうちを覗いて、愕然としながら、範宴の袂をひいた。

「お師さま。……ここでござりますぞ」

「なにが」

「ご覧(ろう)じませ」

「おお」

性善房に袖をひかれて、草庵のうちを覗いた範宴の眼は、涙がいっぱいであった。

姿は、ひどく変っているが、日あたりのよい草堂の縁に小机を向けて、何やら写(うつ)し物の筆をとっている老法師こそ、紛れもない、養父の範綱なのであった。