無事さえ知ればよいようなものの、やはり範宴は一目でも会いたいと思った。
僧正は、その顔いろを見て、明日の朝でも寺の者に案内させるから久しぶりに訪れて行ったがよかろうといった。
「まあ、今宵は、旅装を解いて、ゆるりと休んだがよい」
「ありがとう存じます」
範宴は、退がって、風呂所(ふろしょ)で湯浴みを終えた後、性善房と共に、晩の膳を馳走されていた。
するとそこへ、執事が来て、
「ただ今、僧正のお居間へ、おひきあわせ申したい客人(まろうど)がお見えになりましたから、お食事がおすみ遊ばしたら、もいちど、お越しくださるようにとの仰せでござる」
と告げた。
(誰であろう?……自分に紹介(ひきあ)わせたい客とは)範宴は、ともかく、行って見た。
見ると、寛(くつろ)いだ衣を着て、大口(おおく)袴(ち)を豊かにひらいた貴人が、短徑(たんけい)をそばにして、正面に坐っている。
僧正よりは幾歳(いくつ)か年上であろう、四十四、五と見れば大差はあるまい。
鼻すじのとおった下に薄い美髯(びぜん)を蓄えている。
その髯を上品に見せているのは、つつましくて、柔和な唇のせいである。
「…………」
範宴を見ると、貴人は、前から知っているように、にこと眼で微笑んだ。
慈円僧正はそばから、
「兄上、これが、範宴少納言でございます」
と秘蔵のものでも誇るように紹介した。
「うむ……」
貴人は、うなずいて、
「なるほど、よい若者じゃ」
間のわるいほど、じっと、見ているのであった。
僧正はまた、範宴に向かって、
「月輪関白様じゃ」と教えた。
「お……月輪様ですか」範宴は驚いた。
そして礼儀を正しかけると、関白兼実は、
「いやそのまま」といって、いたって、気軽を好まれるらしく、叡山の今状だの、世間ばなしをし向けてくるのであった。
月輪兼実が、師の僧正の血を分けた兄君であることは、かねがね承知していたが、関白の現職にある貴族なので、こんな所で、膝近くこうして言葉を交わすことなぞは思いがけないことなのである。
「華厳を研究して、叡山の若僧(じゃくそう)のうちでは、並ぶ者がないよしを噂に聞いたが」
「お恥ずかしいことです。
まだ、何らの眼もあかぬ学生(がくしょう)にござりまする」
「弟も、おもとのうわさをするごとに、精進の態(てい)を、わがことのように、よろこんでおる」
「高恩を、無にせぬように、励むつもりでございます」
「いちど、月輪の館の方へも、遊びに出向いて賜もれ」
「ありがとう存じます」
「若くて、求法(ぐほう)に執心な者も多勢(おおぜい)いるから、いちど、範宴御房の華厳経の講義でもしてもらいたいものじゃ。
――この身も、聴いてきたいし」
と兼実はいった。
それから僧正が、自慢の舶載の緑茶を煮たり、一、二首の和歌を作って、懐紙に認(したた)め合ったりして、間もなく、兼実は、舎人(とねり)をつれて、待たせてある牛車に乗って帰った。