平家の曲の大部を残らず弾(ひ)くとすれば、夜の明けるまで語ってもとても語り切れる長さではない。
峰阿(みねあ)弥(み)はその大部なものの要所だけを縫(ぬ)って、たくみに、平家一門の華やかな一時代を幾多の儚(はかな)い物語とを綴(つづ)って、やがて屋島から壇(だん)の浦(うら)の末路へまで語りつづけてきた。
二位殿は日頃より
思い設け給える事なれば
にぶ色の二(ふた)つ衣(ぎぬ)うち被(かず)き
練(ねり)袴(ばかま)のそば高くとり
神璽(しんじ)を脇にかいばさみ
宝剣を腰にさし
主上をいだき参らせて
聞き入っている人々はいつか眼に涙をいっぱい持っていた。
蒼(あお)い海づらに逆まく渦潮(うずしお)のあいだに漂(ただよ)う弓だの矢だの檜(ひ)扇(おうぎ)だの緋(ひ)の袴(はかま)だのがいたましく瞼(まぶた)に映ってくるのであった。
そして驕(おご)り栄えた一族門葉の人々の末路を悲しいとも哀れとも思ったが、涙はその人々にこぼしているのではない、等しく同じ運命の下(もと)におかれている人間というものの自分に対して無常を観じ、惻々(そくそく)と、おのれの明日(あした)が考えられてくるのであった。
われ女なりとも
敵の手にはかかるまじ
主上の御供に参るなり
御志おもい玉わん人々は
急ぎつづきたまえやと
舷(ふなべり)へぞ歩みいでられける
発(はっ)矢(し)と、撥(ばち)の音、聞くものの魂をさながらに身ぶるいさせた。
大絃(たいげん)はそうそうとして急雨のように、小絃は切々として私語(しご)のごとしという形容(ことば)のままだった。
そして、四つの糸が突然断(き)れたかと思われるように撥が止まったと思うと、曲は終わっていたのである。
峰阿弥はまるで雨を浴びたように濡れた顔になっていた。
撥を鳩尾(みずおち)に当てたまま、大きな息を全身でついている。
「ああ」誰となく皆がいった。
われに回(かえ)った顔なのである。
口々に、峰阿弥の技を称(ほ)めたたえた、しかし、峰阿弥はにんやりともしなかった。
「拙(つた)ない曲を、永々とおきき下さいましてありがとう存じまする。それでは、退(さ)がらせていただきます」
早速、琵琶をかかえて席をすべってゆく。
いかにも恬淡(てんたん)な容子(ようす)がいっそう人々にゆかしく思われた。
彼が去って人々が雑談に入りかけたので、範宴はそっと席をぬけて庭へ出ていた。
庭は境がわからないほど広かった。
花明りの下、彼はまだ恍惚(こうこつ)と立っていた。
背に樹の幹が触れたのでそのまま体を凭(もた)せかけていた。
ちらちらと眸(ひとみ)のまえを白いものが遮(さえぎ)って降る。
手を出してもつかまらない幻(まぼろし)のような気がするのである。
心のうちにもそれに似た幻影が離れなかった。
姫の黛(まゆ)である、唇である、黒髪である、どうしても打ち消すことができなかった、熱病のように何か大きな声でものを口走りたいような衝動がじっともの静かに立っている彼の内部を烈しく駆けまわっているのだった。
「是空(ぜくう)、是空」
うめくようにいった唇(くち)はすぐ歯で噛み縛(しば)っていた。
拳(こぶし)を二つの胸にくみあわせて苦しげに闇へ闇へ歩みだしている。
たった今、無常観の大部な話を聞いたばかりの耳は彼自身でもどうにもならない若い血で、火のように熱くなっていた。
「あっ……。粗忽(そこつ)をいたしました。どなた様か、ごめん下さいまし」
先で早くも避けたが、肩の端をぶつけてしまった。
それは、盲人の峰阿弥の声であった。