燭(しょく)が白々と峰阿弥の肉の削(そ)げた頬にゆらいでいた。
人々は、平家の曲が近ごろ流行していることは知っていたが、後鳥羽院のお心にそういう深いお考えがあることは、誰も初めて知ったようであった。
僧正は側にいる範宴をさして、
「これにいる少僧都(しょうそうず)範宴は、今峰阿弥のいうたように、後鳥羽院より格別な寵遇(ちょうぐう)を賜うた義経公とは復(また)従兄弟(いとこ)の間がらじゃ、院の御心を偲(しの)び参らせ、また、こよいの主客とは由縁(ゆかり)もふかい平家の曲を聞くのは何よりの馳走に思う。法師どの、早速に語られい」
といった。
源家の英雄児義経とここにいる範宴とが、復従兄弟にあたるということは、禅閤のほかは皆初めて聞いたらしく、主客の端厳な姿に改まった眼を、そっと向けあうのであった。
つつましく燭を羞恥(はにか)んでいる姫のひとみさえ、深い睫毛(まつげ)の蔭から眩(まば)ゆいものでも見るように範宴の横顔を見たようであった。
峰阿弥は、
「かしこまりました」
一礼して、撥(ばち)を把(と)り直した。
四絃(しげん)をぴたと構え、胸を正しくのばすと、芸の威厳といおうか、貴人の前も忘れたような彼だった。
このとき位階や権門も芥(あくた)のようなものでしかなかった。
しいんとしずまる人々を睥睨(へいげい)して――
祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の鐘のこえ
諸行無常のひびきあり
沙羅(さら)双樹(そうじゅ)の花のいろ
生者(しょうじゃ)必衰の理(ことわり)をあらわす
おごれるもの久しからず
ただ春の夜の夢ごとし
猛(たけ)き人もついには亡びぬ
ひとえに風のまえの塵(ちり)のごとし
遠く異朝を訪(と)ぶらうに
秦(しん)の趙(ちょう)高(こう)
漢の王もう、梁の朱い、唐の禄山(ろくさん)
旧主先皇の政(まつり)にもしたがわず
楽しみを極め
諫(いさ)めをも思い入れず
天下の乱れをも悟らずして
民の愁(うれ)いも知らざりしかば
みな久からずして
亡(ぼう)じにし者どもなり
近く本朝を慮(おもんばか)るに……
峰阿弥の顔は怪異にさえ見えてきた。
撥(ばち)は四弦を刎(は)ね、黄桑(こうそう)の胴を怖ろしい力でたたいた。
彼はもう芸以外に何ものも天地にないように額(ひたい)に汗を光らしてくる。
聞く人々も彼の芸の中にひきこまれて我に回(かえ)ることができなかった。
かの白楽天の琵琶(びわ)行(こう)の話を盆(ぼん)江(こう)の湖上に聞くような気持に囚(とら)われていて、その間(かん)は無心な燈(ともし)火(び)さえうっとりとしているのであった。
間近くは六波(ろくは)羅(ら)の入道
さきの太政(だいじょう)大臣平(たいら)の朝(あ)臣(そん)
清盛公と申しし人のありさまこそ
詞(ことば)も筆おろかよ、及ばね
その先祖をたずぬれば
桓(かん)武(む)天皇第五の皇子
葛(かつら)原(ばら)親王九代の後胤(こういん)――
曲はすすみ、夜は更けて行った。
人は在るが無いように。
ただ、落花(はな)の影だけが、暗い蔀(しとみ)の外に舞っていた。
※「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」=昔、中インドのスダッタ長者がシャカムニの説法場として祇陀(ぎだ)太子の林園に建てた寺。精舎は寺の意。
※「沙羅双樹(さらそうじゅ)」=一本ずつ対(つい)になって生えている沙羅の木。釈迦がインドのクシナガラ城外の沙羅樹の林で入滅したとき、その四方にあった二本ずつの沙羅の木が釈迦の上をおおって、白くなって枯れたといういわくがある。