親鸞聖人の称名思想の一つの特徴は、称名を大行として「如来廻向の行」の面でとらえられるところにあります。
称名とは、あくまでも衆生が如来の名を称えることですから。
従来の宗学はこの称名の考察に「信」との関係をことのほか重視してきました。
親鸞聖人は、この大行を釈して
「諸の善法徳本を具すが故に、名を称すれば、よく一切の無明を破し、志願を満てたもう」
と述べておられますが、もしこれを文面通りに理解すると、「称名」の破闇満願が無条件で認められることになり、仏名を称えさえすれば、いかなる称名でも無明が破られ、往因が決定することになります。
しかし、それでは親鸞聖人における三願廃立の意義、すなわち第十九・二十願の称名念仏の特殊性は消えてしまいます。
また道路で子どもが謳歌する類の称名にも往因を許すことになってしまいます。
そうなれば、信行具足して往因が決定するという浄土教の建て前は崩れ、ここに往因行としての矛盾が生じます。
こうして称名が大行である理由は、真実信を具すか否かということになり、大行論に関して、信の重要性が特に強調されてきた理由が窺い知られます。
けれども、諸先哲のこのような論考にもかかわらず、少なくとも大行出体釈を中心に「行巻」をうかがえば、大行は必ずしもそのようには受けとれません。
信じることによって称名が大行になるとは、どこにも明示されてはいません。
それどころか、むしろ親鸞聖人の筆勢からはその逆の方向が見られます。
『教行信証』では、明らかに「行巻」が「信巻」に先立っており、行が信を導いています。
より的確に言えば、如来廻向の行によって衆生の信が生起せしめられるのであって、大行が衆生の心によって左右されるのではありません。
諸善本を具す大行の徳は、衆生の心を超越しているはずだからで、故に大行が衆生の信を起こすものであっても、その無限の価値が衆生の信の有無によって動ずることはあり得ません。
しかもこの大行を、親鸞聖人は衆生の「称名」として語られ、この称名に「無条件で、衆生の一切の闇を破す」といわしめておられます。
そうすると、称名が大行と呼ばれるかぎり、この称名は衆生信の有無に関係なく大行である必要があります。
諸学説において矛盾が見られる最大の原因は、親鸞聖人が「大行の本質」を論じようとしておられる場(「行巻」の中心課題)に、宗学は「衆生の獲信」の問題(「信巻」の中心課題)を混入して、論考を試みている点にあると言えます。
それは、仏・菩薩が衆生を救う「行」の問題と、迷える衆生がその「行」によって救われる「信」の問題を、同一の場で論じたために、大行論は煩雑になり、矛盾を生ぜしめることになった訳です。
したがって、称名を大行として論じる場合は、基本的には獲信の問題は考慮すべきではないと言えます。
このような見解に立てば、「称名」は信の有無に関係なく、衆生の闇をことごとく破すことになります。
この一つの論拠となるのが、これから取り上げる「称名破満釈」です。
ただし、伝統の宗学において、大行が信をはなすものではないとの論証もまた、ここがその論拠となっています。
そこで、同じ箇所が全く逆の結論を導くに至った相違点を明確にしつつ、以下考察を進めていきます。
さて、「称名破満釈」とは、
しかれば名を称するに能く衆生の一切の無明を破し衆生の一切の志願を満てたまふ。
称名は則是最勝真妙の正業なり、正業則是念仏なり。
念仏は則是南無阿弥陀仏なり、南無阿弥陀仏は則是正念なりと。
知るべしと。
の文を指します。
一見して分かるように、この文章は二つに区分することができます。
一はまさしく称名破満を示す箇所で、「しかれば名を称するに」より「一切の志願を満てたまふ」まで。
二は、古来「融合合釈」と呼んでいる「称名は則是」以下の部分です。
この内前者は、(1)称名がなぜ無明を破すかという点と、(2)曇鸞大師の『論註』讃嘆文釈との対応という面の二つの問題が含まれていますが、(2)は「信巻」の問題なので、今は(1)のみにとどめ、それと「融合合釈」に論点をしぼって考えることにしたいと思います。