称名がなぜ「破闇満願」するのでしょうか。
このことについて、親鸞聖人の意図を従来の宗学ではどのように理解しているのかということについて垣間見ることにします。
宗学を代表する学派としては、石泉・空華・豊前の三学派をあげることができますが、その中から僧叡・善譲・円月の三師を代表させて、それぞれの「称名破満義」を窺うと、すでに「出体釈」のところで考察したように、それぞれ独自の主張がなされていることから、三説はいずれも理解の仕方に微妙な差を呈しています。
ただし、それらはあくまでも表現的差とでもいうべきものであり、論理の場が全く異なるといったような本質的な相違を見出すことはできません。
三師の論旨を窺えば、称名がよく破満することのできる理由を僧叡師は、あくまでも衆生の行として称名をとらえつつも、この称名が真実信を具するが故にとされ、善譲師は衆生の称名がそのま、法体名号の流出に他ならないからであると述べられ、円月師は衆生の称名であることを強調しつつ、それが法体の名号に契っているからだと主張されます。
もちろん、これらは出体釈に対する見解を異にしておられる訳ですから、このような差が生じるのは当然のことだといえます。
ところで、ここで注意すべきは、実はこの差の中にあるのではなく、むしろこのような差異を示しているにもかかわらず、いずれの論もある一点で全く同一の基盤を有していることです。
その統一された解釈が、果たして「行巻」の正しい読み方と言えるのかどうかが、今疑問となる点です。
明らかに知られるように、どの学説を取っても、この称名が機相として衆生の上で語られる場合は、破満しうる称名とは、法徳に如実にかなった称名であることを基本条件にしています。
法徳にかなった称名とは、四十八願の「乃至十念」の称名にほかなりません。
したがって、諸説ともここでの問題点は、「称名破満」が、いかにして「称名正因の邪義」に陥らないかにあるとして、そこに苦心の跡を残しています。
そうすると、いずれも「真実信を具した称名」を大行とする点で意見は完全に一致しており、この傾向は現在の学説にも、変わることなく受け継がれてきています。
確かに「信の一念にて往生は決定する」という思想は、「信巻」に明示されている道理であり、親鸞聖人の思想の中心であることを動かすことはできません。
したがって、もしこの点を重視すれば、無信の往生など論外です。
そうだとすれば、「称名」が衆生の一切の闇を破るという思想は、当然のこととして、その裏に信が宿されていると考えられてきます。
このようにみると、確かにこれは論理として筋が通っていると見受けられます。
けれども、ここで理として筋が通っているということと、それが「行巻」の正しい読み方であるか否かということとは別問題だということに注意したいと思います。
もしそれが、「行巻」の思想とは相いれないものだとすれば、どれほど筋が通っていたとしても、その論理は親鸞聖人の思想であるとは言えないからです。
より端的に言えば、宗学ではこの箇所の論考を行なう際、よく「称名正因の邪義」を問題にします。
けれども、親鸞聖人の称名破満釈の意図は、そのようなところにありません。
「行巻」の流れよりみても、ここは大行の相と体徳を受けて、その用を如実に述べておられると見るのが素直な解釈だと窺われるからです。
このように見れば「親鸞聖人が問題とはしておられない点を宗学は論考の中心課題としている」ということができます。
ここに大行論に関して、『教行信証』の構造を無視した論理が、定説化してしまった原因があります。
先哲の説にも見られるように、
「大信の破満究竟なるに随っての大行」
「大信(信の一念)より出たる称名」
「法徳に即し、よく如実に修行し相応する称名」
なるが故に
「大行よく破満する」
と言われるのですが、このような筆致は、少なくとも「行巻」の思想に見られません。
それよりも『教行信証』はあくまでも「行・信」の順であって、「信・行」の順ではありません。
したがって、大行が大信に先立つのであって、この逆にはならないのです。
「大行よく大信を出し、衆生をして信の一念を生ぜしめる」のです。
これが『教行信証』の基本構造だとすれば、この親鸞聖人の根本理念を逆にして「行巻」を読もうとする姿勢は、どれほど筋が通っていたとしても、正しいとは言えません。