ではなぜ、宗学はこのような明らかな誤りを犯すことになったのでしょうか。
そこで論点を明確にするために、これまで述べてきた大行論の要点を列挙し、整理することにします。
大行とは何か。
称名であり、それは如来廻向の行である。
故にこの行は、諸の善法を摂し諸の徳本を具し、衆生一切の無明を破し、一切の志願を満てたもう。
では、称名はいかなる称名でも、だれが称えても、すべての闇は破せられるのか。
そのようなことはありえない。
無信者の称名は不可であって、真実信を具した者の称名のみ、よく闇を破す。
衆生の真実信は、いかにして生じうるか。
如来廻向の行(大行)によって生ぜしめられる。
その如来廻向の行は衆生の心によって、価値が左右されうるか。
それは全く逆である。
衆生の心が自力で閉ざされていても、それを破る力用が如来廻向の行だからで、大行の価値は衆生の心に左右されるのではなく、それを超えて、無条件で衆生の闇を破るものであらねばならない。
大行とは何か。
称名である。
では、ずべての称名は、無明の闇を破しうるか。
こうして問答は、⑤に戻り、これ以降循環が始まることになります。
そうだとすれば、この問答に終止符を打つためには、④また⑪に対する答えは、「然り」でなければなりません。
けれども、もしそうだとすると、⑤で問われている「信」の問題はどうなるのでしょうか。
ところで、往因として、信の必要性が妥当な論だとすれば、問答はどこまでも循環してしまいます。
結論がでるはずの問答が循環してしまうのは、問答のどこかに矛盾が含まれているからだと言えます。
もし、そうだとすると、その矛盾はどこに存在するのでしょうか。
そこで、①~⑪の項目を今一度通覧すると、次元を異にする二つの問題が、同一の場に重複して置かれていることが知られます。
すなわち、①から④までは大行の本質に関する項目であるのに対して、⑤・⑥・⑦は衆生の往因についての論述なのです。
さらに、⑧と⑨は再び大行の本質に関する思想となり、それが⑩・⑪へと引き継がれています。
それを⑤に戻すと、ここで再度、衆生の往因の問題が挿入されることになり、結果として循環が起こるのです。
換言すれば、異質の次元にあるべきはずの二点、仏・菩薩による救いの行の問題(仏廻向の行に関する本質の問題)と、衆生がその行によっていかに救われるかの問題(衆生の信行の問題)とを、同一の局面におさめて論考を重ねたために、このような矛盾が生じたのです。
そうすると、④の次に置かれるべき答えは⑤のような内容であってはなりません。
親鸞聖人が今問題にしておられることの中心点は、あくまでも大行の本質に関してなのですから、衆生の信心(獲信の問題)は、未だ問われていないと見るべきです。
それを親鸞聖人にさきがけて論ずることは明らかな間違いであり、したがって「獲信」の問題は、いましばらく不問に付しておかなければならないのです。
そうでなければ、大行の問題が曖昧になるばかりでなく、親鸞聖人が後に至って論じられる「信巻」の問題もまた、正しく理解することが出来なくなる恐れが生じるからです。
では、⑤はどのように論が展開されるべきでしょうか。
もし大行に無限の力があるとすれば、ここは当然「然り」と答えられなければなりません。
したがって⑥は、それに対する問い「何故に」が来ることになります。
称名が無条件で、無明の闇を破しているということは、いったい何によって証明されるのでしょうか。
実は、この証明は親鸞聖人にとっては、簡単明白なことでした。
それは、大行が称名という「相」を通して、現にこの迷いの世界に具現していることこそ、まさに何ものにも優る証拠だったからです。
これを裏付けるものとして「行巻」の龍樹引文に見られる「転輪聖子」の譬えに着目してみます。
これによれば、「転輪王の家に生まれ、転輪王の相あるもののみが、よく転輪王の功徳尊貴を念じうる」と言われます。
この文意は、表現を逆にして考えれば、よく理解できます。
もし、転輪王の功徳尊貴をよく念ずることができれば、この者は転輪王の相あるもので、転輪王の家にすでに生まれたものであり、必ずや、やがて転輪王と成りうるものだとの意になるからです。
そこで、これを今「念仏」に置き換えてみます。
そうすると、仏の相あるもののみが、真に仏を念じうることになり、ひいては念仏を行じている者は、すでに仏家に生まれたものであり、必ずや仏になるものだと理解することができます。
これは当然のことであって、迷いの世界にあるものは、真実をよく知ることはあり得ません。
真実に出会うことがないとすれば、どうして仏を念ずることができるでしょうか。
本来的に言えば、迷いの世界に住む私たちは、真に仏を念ずることはできませんし。
ましてや仏の存在さえ知りません。
存在を知らないのですから、仏の名を称えることなど不可能です。
ところが、不思議にも、この迷える現実において、私たちは自らの力によっては知り得ないはずの仏名に接しています。
それどころか、現に仏名を聞き、仏名を称えているのです。
まさしく仏を念じているのです。
仏の存在を知らず、その名前さえ分かるはずのない私たちが、なぜ仏名に出会い、それ念じ、仏の名を口にしているのでしょうか。
「よく念じる」とは、親鸞聖人の理解にしたがえば、私がすでに仏家に生まれ、仏の相の中にあることになります。
ところが、現実の私の相は、間違いなく迷いの世界にあります。
にもかかわらず、迷いの世界にある私が、仏名を称え仏を念じています。
これは、明らかな矛盾しています。
では、この矛盾構造を、どのように理解すれば矛盾が矛盾でなくなるのでしょうか。
迷いの世界にある私の立場から論じれば、この糸のもつれは絶対に解くことはできません。
けれども、これを仏の側から論じるとすればどうでしょうか。
矛盾は簡単に解消されます。
迷妄の私たちが真如にふれるのではなく、真如から仏が働いて,私たちに仏の存在を示される。
仏の側から迷妄を破って真実の姿を現される。
これが、仏の願力功徳なのだとすれば、私たちが煩悩
を持ったままで、真如とふれあっても別に不思議ではありません。