仏の家に生まれ、仏の相を持つことに関しても、例えば、龍樹菩薩の「家清浄」の思想を窺えば、龍樹菩薩は「行者が過咎をなくしてその家に住むが故に家清浄である」と説かれるのに対して、親鸞聖人はその文を「家が清浄であるから、いかなる過咎もその家には宿らない」という意味が解されます。
親鸞聖人の理解によれば、いかなる者もその家に住む以上は、個が持つ過咎はことごとく、家の徳によって消滅することになります。
つまり、家の徳が過咎者を清浄に転ぜしめるのです。
これは明らかに、行者が仏の方向に歩む姿ではなく、仏が行者の方向に来る相だといわなくてはなりません。
こうして、仏家に生まれるということは、私が仏の家に生まれるのではなく、仏が私をして仏家に生ぜしめることになり、同様に私が仏名を聞き、仏名を称え、仏を念じるのもまた、私にその可能性があるのではなく、仏の本願力が大行として私にそうせしめているということになります。
そうすると、仏名を聞き、仏名を現に称えているという事実は、疑いもなく大行が無明の闇を破っている証拠に他なりません。
今、確かにこの迷界に仏名が存在します。
それは、信があるから、私の心に仏名が浮かび、耳に念仏が聞こえ、口より称名がい出されているのではありません。
そうではなく、信の有無を超えて、衆生は仏と出会っているのです。
ここにおいて、迷妄の坩堝の中で、私の口から称名をい出している事実が、すでに無条件で大行の破闇している相となるのです。
これをもし、信の有無によって無明を破すことのできる称名と、無明を破すことのできない称名とに区別するとどうなるでしょうか。
これこそ、不可思議な結果を招くと言わざるを得ません。
なぜなら、「真実信」そのものは、凡夫の意志とか判断とかを超えて存在するものだからです。
「真実信」とは、凡愚の私たちが得たと思えば得ており、未だ得ていないと思えば得ていないというようなものでは決してありません。
現実の世界においては、得ていると自負している者が往々にして不可解な態度をとり、未だ信を得ていないと自覚する者の中にむしろ美しい信仰態度を見ることがあります。
このことから、凡人の目には真実の存在は分からないというべきであり、無明を破す称名と無明を破すことのできない称名との見分け方など、到底不可能だといわなければならないのです。
ときに、よく信なき者の称名の一つの具体例として、演劇の中での「称名」があげられることがあります。
演劇の中で役者が口にする念仏は台詞に過ぎず、したがってその念仏は信はともなっていない念仏の典型とされるのです。
けれども、もし演じている人たちの中に念仏の教えを信じている人がいれば、劇中の念仏であっても、必ずしもその人の称名に信がないとは言い得ません。
また、もし劇中の称名が観衆に深い感動を与えることがあるとすれば、それは演じている人の信の有無によるのではなく、その人の演技力によります。
観衆は名優の演技に心酔することがある一方、大根役者の演技には大きく失望します。
したがって、たとえ信者の称名であったとしても、その人に演技力が伴わなければ人びとが感銘をいだくことはありません。
そうすると、無信の名優と信心の大根役者とでは、どちらの称名がよく無明を破ることができるのかというような比較・判断など、私たち凡夫のよくなし得るところではないと言わざるを得ません。
では、もしその念仏を聞いている人びとの側に聞く耳があればどうでしょうか。
念仏を称えているのが名優であるか否かに関わらず、「称名」そのものが聞く人には「如来の声」として聞こえてくることになります。
このように見れば、「称名」に真実と不実があるのではなく、聞く側に問題があるといえます。
そうすると、如実に聞ける者と聞けない者との差はどこにあるのでしょうか。
ここに初めて、私の信の問題が挿入されることになります。
これがまさに「信巻」の一つの中心点なのです。
大行は明らかに無明の闇を破っているにも関わらず、なぜ私はそのことに気付くことが出来ないのでしょうか。
「信巻」ではこの点が課題として論じられることになるのです。
このような意味で、ここでは信の有無を問題にする必要はないのです。
現に大行がこの迷界に「垂名示形」している事実が重要なのであって、この仏名こそ、ましさく真如の具現相というべきです。
そうすると、称名は無明を破って真如から出現したと理解する必要があります。
ここにおいて、称名とは大行であり、大行である以上は、それがたとえ誰が称える称名であっても、例えば子どもが口にする童歌であったとしても、その称名には無限の価値があると言えます。
そこで親鸞聖人は「大行出体釈」において、称名を大行として理解し、ここに真如が具現す唯一の接点があるとされ、それ故に称名は無量の徳をもって衆生の闇を破ることを、「称名破満釈」を通して教示しておられるのです。