ところで、この転釈はすべて称名の説示として受け取ることができます。
したがって、この道理を理解するのはそれほど困難なことではありません。
けれども、それが何故、最後の一句に「即(それがそのままという意味)」で結びつくのでしょうか。
「正念」とは、明らかに心に念ずるという指向を示します。
意味は「正しい憶念」というべきもので、親鸞聖人の理解に添えば「信心」と同義と見ることができる語です。
このことから、古来宗学では、この正念を信心の意に解しています。
そして、この称名は信心を離すものでないと解釈しています。
その表現をかりれば、「行信不離を示す」とか、「信も南無阿弥陀仏、行も南無阿弥陀仏ぞよと言うことだ」と述べられています。
ただ、このような表現のみでは、この「即」の語を十分に説明しきれているとは言えません。
心に憶念していくことと、口に名を発する行為とは明らかに別個の動作だからで、これはどう考えても同一視されるべき行為ではありません。
そうであるにも関わらず、なぜ「即」で結ばれているのでしょうか。
既述の表見では、その理由が全く論述されていません。
宗学の一般論に従えば、機相の上でこの称名をとらえようとする時、「信を離さざる称名」「信を具足せる称名」「正定聚の機における称名」といった表現をとることになります。
これであれば、行信不離の論証にはなりえません。
ところで、親鸞聖人は、称名と正念を「即」の字で結ばれます。
称名がそのまま、正しく念じること(信心)だとされるのです。
そうであるとすると、称名と正念は不二の意である必要があります。
したがって、ここで親鸞聖人が意図される称名とは、信と行が相い具足した称名というようなものではありません。
まさしく「即」であって、称名することが、そのまま信じていることになり、信じることがそのまま称名している姿でなければなりません。
このように見れば、従来の宗学が示す、信をともなっての称名という解釈は、「即」の語を十分理解しきれていません。
では、称名と正念の語が、親鸞聖人が意味される「即」によって結ばれるとは、どういうことなのでしょうか。
語義からみれば、どう考えても「称名則正念」とは、ただちに結びつくようには思えません。
ところがこの一文を見ると、称名と正念は「南無阿弥陀仏」の語によって結ばれています。
そこで、南無阿弥陀仏の存在意義を重視し、この語を通して両者の結びつきを考察することにします。
そこで、正念と前半との関係はしばらく不問にして、まずこの「南無阿弥陀仏則是正念」についてのみ検討を加えることにします。
ここを解釈することによって、前半との関わりが判明すると思われるからです。
さて、もっとも安易な質問である正念の語義をここで問うことにします。
これは憶念とも信心とも結びつき得る語ですが、語義からみると「正しく心に念ずる」という意味だといえます。
まさしく、「そのもののごとく念ずる」、あるいは「そのもののごとく信じる」ことだと理解することができます。
この場合、正念の対象は、往生成仏における正念ですから、仏果に至るための正念だとしなければなりません。
すなわち、「仏そのものを仏のごとく念ずる」のです。
仏体と不二なる憶念、仏心それ自体を信じることが、正念の義でなければなりません。
では、凡愚にとって可能な、このような正念とは果たして何でしょうか。
そこで、私たちにとってまさしく念じることの可能性が次に問われることになります。
凡夫にとって、正に憶念できるもの、信じることの可能なものとは、まずもって具体的に把握できるものだと言えます。
真如とか空とか呼ばれる、色もなく形もないものは、私たち凡愚に把握することはできません。
したがって、それと私との接点は、どこにも存在しません。
真如とか空とかいう言葉の概念を知ることはできても、概念の奥に潜むその本質には、全くふれることはできないのです。
どのようなふれ合いも不可能だとすると、真如そのものを憶念することは到底無理であり、私と何ら関わりのないものは、存在を知ることも、つまるところ信じることもできません。
何らかの点でふれあうことができてこそ、その存在に気付くことが出来るのであり、また信じる心が生じることになるからです。