明(みょう)慧(え)上人の駁論(ばくろん)を読んだ者は、また必ず、もういちど法然上人の選択集(せんじゃくしゅう)を読んで、両方の教理を比較してみた。
その結果、
「これは念仏門に止(とど)めを刺したな」
と、観る者が多かった。
いつの世でも、新しく勃興(ぼっこう)するものには、必ずこういう痛撃が出るし、受け身になるものよりは、駁撃(ばくげき)するほうへ痛快がるのが、言論の世界の通有性である。
かなりの識者のうちでも、
「やったな」
「愉快だよ」
そういうことがよろこばれるものだ。
まして、叡山の大衆、南都の大衆などは、手を打って、
「これで、念仏も黙った」
と、明慧説を、絶対に支持した。
――なるほど、吉水禅房は、その一時の隆盛ぶりから見ると、表面いちじるしく衰弱したように見える。
しかし、そこを訪れた者が当の法然上人を初め、高足たちが、意外に泰然として、しかもすこしも明慧説を陰で誹(ひ)謗(ぼう)するようなこともなく、その信仰にも、毛ほどな揺るぎも見せないことを、むしろ奇異に思うくらいであった。
いや、人出入りや、房の学僧などの数こそ、ひところよりは減ったが、残った人々のあいだには、外部の迫害に対して、かえって、いっそうその結束と信仰のつよさを固めてきた風さえあった。
念仏か、菩提心か。
そんな問題や、
聖(しょう)道(どう)か、易(い)行(ぎょう)か。
というようなことは、もうここの人々には初学であった。
今さら、そんなことに疑義を持っている者は、上人の高足たちの間には、一人もいないといってよい。
もっと、もっと、この人々の研究心は、深い所へ根を下ろしていた。
――外部の迫害とか、非難とか、教義の揚足(あげあし)とりなどはよそに、自己のうちに、論敵を求め、自己のうちに真理をつかもうとして、焦心(あせ)り合っているくらい、それは、すさまじい魂の磨き合いを見せていた。
岡崎の草庵から、善信も、度々そこへ通っていた。
そして、いつも火の出るような議論の中へ彼もつかまるのだった。
――ちょうどその日は、高足の聖信房湛(たん)空(くう)だの、勢(ぜい)観房源(かんぼうげん)智(ち)だの、念仏房念(ねん)阿(あ)など初め、そのほか多くの人たちが来て集まっていた。
ふと、善信が、そこへ姿を見せたのである。
すると湛空が、
「オオよい折に」
と、早速、
「善信房、あなたならば、はっきりしたお考えをお持ちにちがいないからうかがうが――」
と、質問し出すのである。
「実はただ今、これに集まっている人々の間で、いったい、信仰というものは、人によって変りのあるものか、変りのないものか。つまり信仰は一か異か――とこういう問題が出たのですが、あなたは、どうお考えになられるのか」
「さよう」
善信は一同のあいだへ静かに座をとって、よほど激論の有ったらしい一同の熱した顔いろの跡をながめていた。
湛空は、膝をつめよせ、
「たとえば、吾々は、ひとしく浄土に生きんという理想をもっている。けれど、凡夫の吾々と師の上人とは、信人の誠というものがどうしても異(ちが)うはずです。
――そうしてみると、われらは、いつになったら師の上人のような心境になって、真の安心が得られるだろうかと考えたくなる。
――生れつきの愚鈍や凡夫では生涯かかってもついにほんとの往生極楽の味はわからずにしまうのじゃないかと思うのです。
……で、議論になったわけじゃ……信仰は万人一が異(ちがい)のあるものか。変か不変か……問題なんです」