たとえまだ吉水へ残っている学僧たちでも、表面は平静を装っているものの、内心では、みな多少の懐疑を持っているらしく、
「一体、栂尾(とがのお)の明慧の輪は、念仏門のどこがいけないというのだろうか」
寄るとさわると、それが話の中心になって、やはり気にかけているふうだった。
「いうまでもなく師の法然上人のお書きになった、選択(せんじゃく)本願(ほんがん)念仏集(ねんぶつしゅう)の中にある教理をつかまえて、それを反駁(はんばく)しているのが、明慧の摧(さい)邪(じゃ)輪(りん)なのじゃないか」
「それは分っているが、双方の信念のちがう点は」
「それは明慧が、幾ヵ所も指摘しているが、最もちがうところは、吉水の教理では、念仏をもって往生の第一義としておるが、明慧は発(ほつ)菩(ぼ)提(だい)心(しん)をもって仏者の要諦としている」
「つまり、念仏か、菩提か。――とう議論だな」
「議論などを明慧はしていないのだ。
――発(ほつ)菩(ぼ)提(だい)心(しん)、往生安楽国――とう見地から、法然上人の選択(せんじゃく)本願念仏集を真っ向から粉砕している口吻(こうふん)で、念仏門の邪見十六条というものをかぞえあげている」
と、その学僧は、眼をつむって、暗記している明慧の著書のうちのことばをそら読みに読みはじめた。
――夫(ソ)レ、仏日没スト雖(イエド)モ、余輝(ヨキ)未ダ隠レズ、法水(ホウスイ)乾クト雖モ、遣(イ)潤(ジュン)ナオ存セリ。
吾等、之(コレ)ニヨリテ毒酔(ドクスイ)ヲサマシ、之ニヨリテ覚(カク)芽(ガ)ヲ萌(キザ)ス。
豈(アニ)、幸(サイワイ)ニアラズヤ。
然リト雖モ、愚子狂子、稀ニ良薬ヲウケテ嘗(ナ)メズ、何ゾソノ拙(ツタナ)キヤ。
爰(ココ)ニ近代、一聖人(ショウニン)アリ、一巻の書を作リ、名(ナヅ)ケテ「選択(センジャク)本願(ホンガン)念仏集(ネンブツシュウ)」トイウ。
経論ニ迷惑シテ諸人を欺(キ)誑(キョウ)シ、往生(オウジョウ)ノ行(ギョウ)ヲ以テ宗(シュウ)トナストイエドモ、却ッテ、往生ノ行ヲ妨碍(ボウガイ)セリ。
高弁(コウベン)、年来聖人(ショウニン)ニ深キ信仰ヲ抱(イダ)キ、聞(キコ)ユルトコロノ邪見ハ、在家ノ男女(ナンニョ)等、聖人ノ高名ヲカリテ妄説(モウゼイ)スルトコロト思イ居タリ。
コノ故ニマダ以テ一言モ聖人ヲ誹(ヒ)謗(ボウ)セズ。
然ルニ近日、コノ「選択集(センジャクシュウ)」ヲ被(ヒ)閲(エツ)スルニ、悲嘆甚ダ深シ。
名ヲ聞キシ初メハ、聖人ノ妙釈(ミョウシャク)ヲ礼(ライ)サントヨロコビ、巻ヲ被(ヒラ)クノ今ハ恨ム、念仏ゾ真宗ヲ黷(ドク)セシコトヲ。
今ツマビラカニ知リヌ、在家、出家、千万門流ノ起ストコロノ種々ノ邪見ハ、ミナコノ書ヨリ起ルトイウ事ヲ。
「――こう書き出してあって、総じて、選択集には、十六の過(あやま)ちがあるといっている。
――第一は、菩提心をもって往生極楽の行(ぎょう)としないこと。
第二は、弥陀(みだ)の本願の中(うち)に菩提
心なしということ。
第三は、菩提心をもって小利とするの過ち――第四は、菩提心は念仏
を抑えるという過ち――等、等、等」
「むずかしいな」
「どっちがほんとだか、読んでいても、実は、吾々には分らなくなる」
「いったい、菩(ぼ)提(だい)心(しん)というのはなんだろう」
「明慧は、こう説いている――
菩提心トハ何ゾ。
曰ク、向上ノ心即チ是(コレ)ナリ。
菩提、訳シテ覚(カク)トイウ。
仏(ブッ)果(カ)一切ノ智々ナリ。
コノ智
々ノ上ニ起ス衆生ノ希望心ニテアルナリ。
コノ故ニ、仏道ヲ修メ、往生ヲ願ウモノ、如(イ)何(カン)ゾコノ心ナクシテ可(カ)ナランヤ」
「――なるほど、そう聞くと、人間が安心を得たいために、仏教に耳を傾ける発心のはじめは、やはり菩提心が先だろうな」
「けれど、吾々の教えをうけている法然上人の仰せには、菩提心も仏果の助けにはなるが、頼みにはならぬと仰っしゃるのだ。ただ念仏こそ、真の安心へ導くものだと常々仰っしゃっている」
*「選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)」=鎌倉前期の仏書で二巻。法然が九条兼実の願いによって執筆したもの。「真宗の簡要、念仏の奥儀、これに摂在せり。みるものさとりやすし。誠にこれ希有(けう)最勝の華文、無上甚深の宝典」という。法然の高弟聖光、聖覚、親鸞らが書写を許されている。せんちゃく ともいうが、浄土真宗ではせんじゃく という。