聖覚法印の遊説は、効果があったらしい。
山門は、わりあいに、彼の、
(浄土門とはどんな教えか)という講演に、好感をもったようであった。
先には、七箇条の誓文と、法然の謙譲な文書が来ているし、その後から、法印聖覚が、こうして山を説いてあるいたので、叡山の感情は、非常にやわらいできたように見えた。
すくなくとも、表面だけは。
だが、風は――波は――依然としてやんではいない。
果然。
吉水の教壇へ向って、巨弾を放ってきた第二の法敵があらわれた。
高(たか)雄(お)栂尾(とがのお)の明(みょう)慧(え)上人である。
この上人は、そこらにざらにあるいわゆる碩学(せきがく)とは断じて違う。
満身精神の人だった。
学問の深さも並ぶ者がまずあるまいという人物だ。
(栂尾の上人がこういった)といえば、その一言(いちごん)は、思想界をうごかす力があった。
しかも、明慧は、めったに言論を弄(もてあそ)ぶような人ではなかった。
自重して、深く晩節を持し、権力とか、名聞(みょうもん)とか、そんなことに軽々しくうごく人でも決してない。
ところが――その明(みょう)慧(え)が、奮然、起ち上って、吉水へ挑戦したのである。
その峻(しゅん)猛(もう)の意気を世に示したものが、
「摧(さい)邪(じゃ)輪(りん)」三巻
「摧(さい)邪(じゃ)輪(りん)荘厳(しょうごん)記(き)」一巻
こう二つの著であった。
「――よんだか、栂尾(とがのお)の上人の著書を」
「うむ、見た」
「全文、熱烈な念仏批判の文字だ。念仏門の教義も、あれには木ッ葉微(み)塵(じん)に説破されてしまった形だ。
――空谷(くうこく)の天ぴょうというのは、ああいう文章のことではないか。何しろ、痛烈にやったものだな」
「吉水も、こんどは参ったろう。栂尾の上人の人格と、学識の前には、いやでも念仏の声をひそめてしまわずにはいられまい」
世評は、たちまち、これを問題にとりあげて、さらに巷(ちまた)へ拡大した。
あまり評判がたかいので、吉水の学僧たちも、ひそかに「摧邪輪」を手に入れて、かくれて読む者が多かった。
そして読んだものは必ず、
「――はてな」
と、今まで信念していた念仏門の教義に疑いを抱いて、信仰の根本に、動揺を感じ出した。
それほど、明慧の学説には、確乎とした仏教精神がこもっていたし、また、整然とした理論と、的確な考証をも併(あわ)せて持っていた。
権力や、伝統や、自己の位置を擁護するために、ただ暴狂的に、吉水を押しつぶそうと試みる叡山の反撃とは、それはまるで比較にならない真(しん)摯(し)な反駁(はんばく)であった。
「痛手だ。なんといっても、これは吉水の教団にとっては、致命的な打撃だろう」
と、人々はいい合った。
事実、明慧上人のこの獅子吼(ししく)があらわれてから、吉水禅房の内部にも、かすかな信仰の揺るぎが萌(きざ)してきた。
その証拠には、法然の講義を聴く学僧たちが、このところ、めっきり数が減ってきたのでもわかるし、また、在家の信徒の訪れは、目立って少なくなってきたことは争えない。
*「摧邪輪(さいじゃりん)」=栂尾明慧上人著。法然上人の選択本願念仏集を反駁したもの。輪(りん)は法輪のこと。仏教を象徴し、従ってよこしま仏法(法然の浄土思想)を摧(くだ)くというきびしい表現。