時々、はっと、自分の居眠りに気づいて、四郎は赤い眼をあいた。
そして、さすがに少し間(ま)のわるい顔をしながら、まわりの聴衆を見まわした。
だが、聴衆は、水を打ったように静かな空気を守りつづけ、眼も、耳も全身をもって、法話の壇のほうへ向けていた。
一人として、そこに居眠っている四郎の様子などに気を散らしている者はない。
「ホ?……」
仏教の話などには、何の感興も持たないはずの四郎が、その時、やや眸をあらためて、前の者の肩越しに、壇のほうへ、大きな眼をみはった。
「善信だ……」
思わずつぶやいたので、そばの者が、ふと彼の顔を見た。
四郎は、下を向いた。
てれ隠しに顔を撫でる。
――聞くともなく、善信の声が耳へ流れこんでくる。
覚えのある声だ。
(しばらくぶりだな)と、思う。
壇の上に立って、岡崎の善信は今、低い音吐(おんと)のうちに何か力強いものを打ちこめて、諄々(じゅんじゅん)と、人々と、人々のたましいへ自己のたましいから言葉を吐いているのだった。
めっきり体が弱くなって、法然上人が人々へ顔を見せることができない日でも、
(オオ、善信様が)と、彼のすがたを仰ぐと、聴衆はそれだけでも満足するのだった。
随喜(ずいき)して、もう口のうちの念仏に素直な心を示すのだった。
その善信が、かなり長い時間にわたって、庭面(にわも)の暮れるのもわすれて、自己の信念を説き聞かせていると、人々は、いつか、涙をながして、
(おれは間違っていた)
(生き直ろう)
(もっとよく生きよう)
懺悔(ざんげ)の気持をいっぱいに持って、耳にも口にも眼にも、念仏の光のほか何ものもなく聞き入っているさまであった。
四郎は、腮(あご)へ手をやって、
「笑わせやがる」
と、肚のそこで嘲(あざ)んだ。
「――裏と表が見えねえから坊主は有難がられるのかと思っていたら、善信などは、坊主のくせに、女房を持ち、岡崎の庵室で、あの玉日とかいうきれいな女と、破戒の生活を大びらにやっているのに、それでもまだ、愚民どもは、有難がっていやがる。度し難い奴らだ」
彼は、むかむかしてきてそこに坐っていられない気がした。
ひとつ、ここから起ち上がって、
(みんな!眼をさませ)と、呶鳴ってやろうか。
そして善信が、いかに、破戒の堕落僧であるかを、おれが一席弁じ立ててやろうか。
そう思ったが、考えてみると、自分もあまり人中で大びらに顔を晒(さら)すことのできる人間ではない。
誰か、気がついて、
(天城四郎だ)
(大盗の四郎だ)
指さされたら、大変なことになる。
さっそく、自分から先に逃げ出さなければならない。
「ちいッ……いつまで同じことをいってるんだ」
彼は、うるさい意見でも聞くように、口のうちで舌打ちを鳴らし、
「わ、わ、あ――」
と、大きな欠伸(あくび)をかみころした。
※「随喜(ずいき)」=仏教で、よろこんで信仰すること。心からありがたく思うこと。
※「度し難い(どしがたい)」=道理がわからず、すくいがたい。ゆるせない。