悪人――といったような声がふと耳に入った。
四郎はぎょっとして首をもたげた。
(俺のことを何かいっているんじゃねえか?)猜疑(さいぎ)の眼を光らし見まわすのであった。
善信の法話の言葉のうちにである。
幾度(いくたび)も、悪人という語が用いられた。
悪人という語が出るたびに、四郎はぎくりとして、
(俺へ面(つら)当てをいってやがる)と思った。
だが、周囲に充ちている聴衆は、相変わらず熱心に、善信の法話に耳をすましているだけであって、四郎のほうを見る者などは一人もないのである。
しかし四郎は、多くの人々が、自分に無関心であるとないとに拘(かか)わらず、悪人という言葉が癪(しゃく)にさわった。
こんど何か自分の面当てがましいことをいったら、躍り立って、壇にいる善信の襟がみを引っつかんでやろうと心に企(たくら)んでいるらしく、じっと、聞き耳を欹(た)てて、善信のことばを聞いていた。
――すると、その耳へ諄々(じゅんじゅん)と入ってきたのは、善信の説いている真実な人間のさけびであった。
他力の教えであった。
念仏の功力だった。
――また、どんな人間でも、心をそこに発した日から、過去の暗黒を捨てて、往(ゆ)いて生きる――往生の道につけるものだという導きであった。
それが、実証として、善信は今、こうもいっているのであった。
善人でさえなお往生がとげられる。
なんで!悪人が往生できないということがあろうか。
聴いている人々は、最初は何か間違いをいっているのではないかと思ったが、だんだんと善信が説いてゆくのを聞いて、
(なるほど)と皆、深くうなずいた。
単に、悪いことをしないという善人よりは、むしろ、悪いことはしても、人間の本質に強い者のほうが、はるかに、菩提の縁に近いものだということもわかってきたし、また、そういう悪人がひとたび悔悟して、善に立ち直った時は、その感激と本質が加わるので、いわゆる善人の善性よりも、悪人の善性のほうが、かえってはやく御仏の心へ近づくこともできる――
ひとたび悪業の闇に踏みこむと、無間(むけん)の地獄に堕ちるように、聖道門(しょうどうもん)のほうではいうが、われわれ他力本願の念仏行者は、決して悪人といえども、それがために、憎むこともできない、避ける必要も持たない。
ただ、どうかして、その悪性が善性となる転機に恵まれることを願いもし、信じもするものである。
こう善信は話した。
およそ人間の中に真の悪人などはいない。
善人の心にも悪があり、悪人の心にも善はある。
悪人と呼ばれるものは、社会からそういうけじめをつけられて、自身も、悪を耽美したり、悪人がったり、悪を最善のものと思ったりしているが、その実、彼も人間の子であるからには、常々、風の音にも臆したり、末のはかなさを考えたりして、必ず、われわれのような生きがいは感じることができないでいるのだ。
世の中に、不愍(ふびん)な人間という者をかぞえれば、路傍の物乞いより、明日(あす)の知れない瀕死の病人より、そういう日常坐臥に、人間のくせに、人間に対して負(ひ)け目をもっている悪人である。
善信の話は、それから先も尽きなかった。
人々は、まったく、水の底のようにひっそりして、皆顔をうなだれて聞き入っていた。
――すると、誰ともなく、聴衆の真ん中で、不意にオイオイと声をあげて泣き出した者がある。
「おや?……」
初めて、人々は、眼をそこにあつめた。
見ると、天下の大盗といわれる天城四郎ではないか。
四郎は、子供のように泣きやまなかった。
※「無間(むけん)」=仏教で、無間地獄の略。八大地獄の一つ。五逆罪を犯した者が、たえず苦しみを受ける所。むげんとも。