――急転直下である。
承元の元年、二月二十八日。
宣下は吉水へ降(くだ)った。
罪アリ。
法然房源空ヲ、俗名藤井元彦ノ名ニ帰セシメ、土佐ノ国ニ遠流(オンル)ヲ命ズ。
洛内はこの不安なうわさで、埃(ほこり)が黄いろく漲(みなぎ)っていた。
諸国の信徒に、不穏な行動でもないかと、官の駅伝は、諸街道へ向けて、国司へ早馬を送っていた。
罪は勿論、法然ひとりに下ったのではない。
吉水門下のうちでは、浄聞房(じょうもんぼう)、禅光房などの高足八名に対して、備後、伊豆、佐渡、阿波の諸国にわけて、それぞれへ、
(流罪――)という厳達であった。
その他には、性願房(しょうがんぼう)、善綽房(ぜんしゃくぼう)という二人は、かねてから鹿ケ谷の安楽房や住蓮と親密であり、かたがた、平常のこともあって、これは、
(死罪――)という酷命(こくめい)であった。
吉水の禅房を中心として、洛内の信徒の家屋敷は、おのおの、暴風雨(あらし)の中のような様であった。
突然、荒々しい武者どもが来て、
「調べる」
と、たった一言(いちごん)の下(もと)に、家財を掻き廻して、家宅捜索をする、そして、わずかばかりな一片の手紙でも、不審と見れば、
「こやつ、念仏門の亡者と、深い企みがあったな」
有無をいわせないのだ。
食事中の主(あるじ)を引っ張って行ったり、乳のみ児の泣く母親の手を曳いて行ったり、それはもう地獄の図にひとしいありさまだった。
わけても、今度の事変で、法然上人以上に、一身を危機に曝(さら)された者は、岡崎の善信であった。
叡山からは特に、と、かねてから注目の的になっていた善信である、念仏門の大提唱は、法然によって興ったとはいえ、その法然の大精神と信念とを体して、自己の永いあいだの研鑽をあわせて、強固不抜ないわゆる一宗のかたちを完(まった)からしめてきたのは、より以上、善信その人の力であると、今では人も沙汰するところである。
「彼こそ、この際、断じて死刑に処されなければいかん」
とは、彼の大を知る反対側の他宗において、勃然と揚(あが)っている気勢であった。
で――法然門下中の逸足(いっそく)としてこんどの処刑のうちには、真っ先にその名が書き上げられてあった。
他宗の希望どおりに「死罪」として。
その罪として、
――彼は肉食(にくじき)妻帯をしている。
――彼は公然、しかも白昼、その妻玉日の前と同乗して、洛中を憚(はばか)りもなく牛車を打たせて歩いた。
――彼はまた、何々。
善信の今日までの苦難力学はみな罪条にかぞえ立てられ、叡山の大衆(だいしゅ)はひそかに、(異端者の成れの果てはこうなるのが当然だ、こうして初めて社会も法燈も正大公明ということができる)と、いった。
ひとり六角中納言親経(つねちか)は、その罪を決める仁寿殿の議定(ぎじょう)でそれが公明の政事(まつりごと)でないことを駁論(ばくろん)した。
中納言のこの日の議論はすさまじかった。
太上(だいじょう)天皇のおん前ではあったが、面(おもて)を冒して善信の死罪はいわれのない暴刑であると論じ立てたのである。
――しかし彼は吉水の味方でもなく叡山の味方でもなかった。
天皇の臣として。
また、この国の文化と精神をつかさどる一員として、極力、反対したのである。
その結果、善信は死一等を減じられて、
(越後国、国府(こう)へ遠流(おんる))と決まったのであった。
*「太上天皇(だいじょうてんのう)」=位をゆずった天皇。上皇。だじょうてんのうとも。
*「面(おもて)を冒【犯】して」=主君などの意にさからうのもはばからずに諌める。目上の人に、あえて自分の考えをいう。