「――なにもかも懺悔いたしまする」
と、こう石念はまた、素直にことばを継ぐと、もう邪(さまた)げるもののない気持で、いおうとすることばすらすらいえた。
「その時の私は、情火の獣でした。もし鈴野どのが私の愛を拒んだら力ずくでもという気持でした。戸に手をかけました。そして二、三寸ばかりそこを開けたのです。すると同時に、ハッと私は眼が眩んで両眼を抑えたまま俯伏(うつぶ)してしまったのです。なぜならば鈴野どのの部屋に、一道の白い光が、仏光のように映(さ)して見えたからでした」
鎮痛な声である。
筧(かけひ)の水の音がどこかでして、鈴野も親鸞も、そこになく、彼一人が独りで口走っているかのように静かであった。
「――後でよく考えて見ますと、その光というのは、鈴野どのの部屋の窓が隙(す)いていたので、夜明けの光が射し込んでいただけのことだったのです。……けれど夜もすがら、熱病のように悶々としていた私は、夜が明けていたとも考えておりません。真っ暗な部屋の中とばかり思っていた眸を、不意に、怖ろしい光明で射られたので、そのまま、うッ伏すしてしまうと、思わず、念仏をさけんでしまいました。次には、しまったと思う悔いと涙とでうろたえながら、逃げ出しました。身の置きところもないように」
「…………」
「どうぞ、お師さま、私を今日かぎり、破門して下さいませ、私は外道に落ちました、改めて修行とし直した上、ふたたびお膝下へお詫びしに参ります」
親鸞は瞑目していた眸をうすく開いて、そういう石念のすがたを愛(いと)し子のように見入った、彼はまだ道念の至らないこの若僧の悔いに打ちのめされて慚愧している有様を見ると、あたかも二十歳(はたち)だいのころの自分を見ているような気がするのであった。
「石念」
「は……はい」
「泣かでもよい、さてさておことはまたとない不思議な仏陀の示現にお会いなされたの」
「えっ、示現とは」
「おことが、罪の戸に手をかけたとたんに、その眸を射た光こそ、弥陀本体の御光でのうてなんとするぞ」
「……?」
「わからぬか、おことはそれをもって窓にさしていた夜明けの光というたが、おことはそのせつなに念仏をさけんだというではないか。窓の明りではない、それこそ弥陀本体の御光じゃ、尊い弥陀の示現に試されたのじゃ、その折に出た念仏こそ、真(まこと)の念仏、生涯忘れまいぞ」
「わかりました、お師さま!」
と、石念は合掌して、
「私は、なんたる、果報者でしょう、この眼で御仏を見ました」
と、狂喜した。
親鸞は、ことばをかさね、
「そなたはまた、この草庵を出て、修行し直すというたが、それにも及ばぬ、他力易行の行者は、ありのままこそ尊い、配所の囚人(めしゅうど)であれば囚人のままで、在家にあれば在家のままで、ただいつも、本体の弥陀のすがたを、しかと見て、見失わずに――」
慈父のような教えだった。
石念の心の傷は洗われた、いや大きな欣びにさえなった。
それからまもなく、石念と鈴野とは、師の媒介(なかだち)で添うことになった。
親鸞の寛大と英断に驚く者もあったが、それからの石念の道行はたしかに一歩も二歩も進んでいた。
同房の法友たちは、彼のために、また念仏門のために、この一組の若い夫婦(めおと)を心から祝福した。