「――誰じゃ」
ふと窓の外へ眼をやった時、親鸞が静かに芭蕉の陰へ訊ねた。
「石念ではないか」
「は……はい」
「何しておる」
「……私は……お師さま!……御庵室の床に上がれない不浄な人間でございます、外道へ落ちた人間です」
「何をいう」
ほほ笑みが親鸞の顔に泛(う)かんだ。
他愛ないことでも聞くように、
「お上がりなさい」
と、それだけいった。
「…………」
石念はなおそこにじっとかがまり込んでいたが、やがて思い切ったように、
「よろしゅうございましょうか」
おそるおそる立った。
そしてやがて、縁から科人(とがにん)のような卑屈な眼を俯(ふ)せて、親鸞の室へ坐り、自分の頭に下るであろう罪の鉄槌を待っていた。
「……なんじゃ、どうしたのか」
親鸞はまだ何も知らないらしいのである。
だが、それはかえって石念の苦痛であった。
何もしらない師の房へ、新しく口を切り出すのが辛かった。
――だが、石念は思い切って、事実を継げた。
「私は幾たびも、自分で自分の心をいやしみ、一心に、念仏をもって、邪心を退けようとして、幾日もたたかいました。――けれど、一度、鈴野様の美しさに囚われた煩悩は、何としても去らないのでございます」
親鸞は眼を閉じていた。
――じっと聞き入って、次のことばを静かに待っていた。
「それで――」
「昼間は、炎天を、教化して歩いているので、かえって胸の苦しみはわすれました。けれど、夜のすず風に、わが身にかえってくつろぐと、身内の炎は、昼間の炎天どころではありません」
「むム……」
「いけない!そんなことで、どう修行がなろうぞ!そう我を叱って、水を浴びたり、竹林の中で、夜もすがら念仏したり、岩に伏したりしましたが、克(か)つことができません。――とうとう私は、犯してはならない垣を踏み越えてしまいました。――鈴野様の部屋へ忍んで行ったのでございました」
「…………」
「その時の心は、自分ではわかりません……われながら、まったく夢中の仕業(しわざ)でありました」
「石念、待ちなさい」
「はい」
「おことの声に、真実がある、嘘のないその声を、鈴野にも聞かそう」
「え、鈴野どのへ」
「……誰ぞおりませぬか、鈴野をよんで下さい、ここへ」
後ろの部屋へ向って、こういうと、誰かが鈴野を呼びに行ったらしい。
――そこに石念と師の房との対坐しているすがたを見ると、鈴野はさっと顔を紅(あか)めてしまった。
「お師さま、何か御用事でございますか」
「そこへ坐っていて下さい。……石念のいう言葉を聞いておればよい。……わしも聞こう、石念、話なされ」
「はい」
といったが、さすがに、そこに鈴野がいては、穴にも消え入りたい気がするのであろう、石念は硬くなって、しばらく両手を膝についたまま沈黙していた。