親鸞 2016年5月22日

「――誰じゃ」

ふと窓の外へ眼をやった時、親鸞が静かに芭蕉の陰へ訊ねた。

「石念ではないか」

「は……はい」

「何しておる」

「……私は……お師さま!……御庵室の床に上がれない不浄な人間でございます、外道へ落ちた人間です」

「何をいう」

ほほ笑みが親鸞の顔に泛(う)かんだ。

他愛ないことでも聞くように、

「お上がりなさい」

と、それだけいった。

「…………」

石念はなおそこにじっとかがまり込んでいたが、やがて思い切ったように、

「よろしゅうございましょうか」

おそるおそる立った。

そしてやがて、縁から科人(とがにん)のような卑屈な眼を俯(ふ)せて、親鸞の室へ坐り、自分の頭に下るであろう罪の鉄槌を待っていた。

「……なんじゃ、どうしたのか」

親鸞はまだ何も知らないらしいのである。

だが、それはかえって石念の苦痛であった。

何もしらない師の房へ、新しく口を切り出すのが辛かった。

――だが、石念は思い切って、事実を継げた。

「私は幾たびも、自分で自分の心をいやしみ、一心に、念仏をもって、邪心を退けようとして、幾日もたたかいました。――けれど、一度、鈴野様の美しさに囚われた煩悩は、何としても去らないのでございます」

親鸞は眼を閉じていた。

――じっと聞き入って、次のことばを静かに待っていた。

「それで――」

「昼間は、炎天を、教化して歩いているので、かえって胸の苦しみはわすれました。けれど、夜のすず風に、わが身にかえってくつろぐと、身内の炎は、昼間の炎天どころではありません」

「むム……」

「いけない!そんなことで、どう修行がなろうぞ!そう我を叱って、水を浴びたり、竹林の中で、夜もすがら念仏したり、岩に伏したりしましたが、克(か)つことができません。――とうとう私は、犯してはならない垣を踏み越えてしまいました。――鈴野様の部屋へ忍んで行ったのでございました」

「…………」

「その時の心は、自分ではわかりません……われながら、まったく夢中の仕業(しわざ)でありました」

「石念、待ちなさい」

「はい」

「おことの声に、真実がある、嘘のないその声を、鈴野にも聞かそう」

「え、鈴野どのへ」

「……誰ぞおりませぬか、鈴野をよんで下さい、ここへ」

後ろの部屋へ向って、こういうと、誰かが鈴野を呼びに行ったらしい。

――そこに石念と師の房との対坐しているすがたを見ると、鈴野はさっと顔を紅(あか)めてしまった。

「お師さま、何か御用事でございますか」

「そこへ坐っていて下さい。……石念のいう言葉を聞いておればよい。……わしも聞こう、石念、話なされ」

「はい」

といったが、さすがに、そこに鈴野がいては、穴にも消え入りたい気がするのであろう、石念は硬くなって、しばらく両手を膝についたまま沈黙していた。