世間ではそれを、
「心地よいことだ」
と噂したが、城主を失った家臣と一族の人々は、
「すわ」
と、あわてて、高綱が上ったという高野へさして走(は)せつけた。
四郎高綱は、そこにいた。
しかしもう先ごろの高綱ではなかった。
剃髪して、高野行人の一人となっている沙門高綱であった。
家来たちが、その姿を見て、
「あまりといえば……」
と、恨みまじりに嘆き合うと、高綱は、彼らのそうして嘆くことさえ、今ではおかしく見えるように、
「所領も、児島城の財産も、すべて一同でよいように頒(わ)けてくれい。――勝手な主人と思うであろうが、わしは再び武門へは帰らぬ。永いあいだを、そちたちには、無駄な奉公させたように思われて、それが何より済まぬと詫びておるぞ。これへ参らぬ旧臣どもへも、ありのままに、今のことばを、伝えておくりゃれ」
そういったきりであった。
うごかない決心のほどを見て、何とかもういちど児島の城へ帰ってもらおうと考えて来た家臣たちも、断念するほかなかった。
悄然として、佐々木家の人々は、武名天下に聞えた四郎高綱ともある人を、山に捨てて帰らなければならなかった。
高綱は、一個の新沙弥となって、当年の高野行人派のひとりとなって、修行を志した。
糞中の穢虫
居を争って
外の清きを知らず
彼は、西仏の手がみにあったその痛烈な一章を忘れなかった。
そして、この高野の大自然と七宝の大伽藍の中につつまれて生き直った時、
「こここそは、蛆の棲家の外だ――」
と思って、大きな呼吸(いき)をついて独り天地に感謝した。
ところが、ここにも彼の想像し得ない世間があった。
そのころ、この山では行人派の一派と学領派とよぶ一派とが、事ごとに対立していて、学問の上ばかりでなく勢力の抗争が烈しかった。
そしてその奉持する宗教では、飽くまで禁慾的な――難行苦行主義な――自力聖道の道を極端にまでやかましくいっていたが、高綱が見たところでは、それは形の上にだけ行われていて、僧たちの個人生活には、それと矛盾している無数の醜が隠されていた。
隠されて行われているために、それはよけいに人間の醜を感じさせるものになる。
――のみならず高綱自身も、その外面的な禁慾主義と難行主義に、迷いと、疲れが重るばかりで、真の出家のたましいはここでは得られそうにもない気がした。
「だめだ」彼は山を見まわした。
「ここも糞中の外ではなかった。――ああどこにそれがあるのか?」
ふと、彼は西仏の居どころを思い出した。
北越――小丸山の草庵。
そこには、高野のような金堂宝塔の美はないが、何か慕わしいものがあるように思われた。
その慕わしいものの心根をさぐってみると、高綱もまたいつとはなく世上で耳にしていたところの親鸞という名であった。
「そうだ」
彼は高野を下りた。
――何の惜し気もなく七堂伽藍の善美や九百余坊の繁昌仏国をすてて、北へ、北へ、たましいの住み家を求めて、孤影を旅の風にまかせて歩いた。