裏日本の風にはもう冬の訪れが肌を刺してくる。
越後ざかいの山脈は、すべて銀衣をかむっていた。
薪(たきぎ)をかこい、食糧を蓄え、そして雪除け廂の下に、里では冬を籠る支度だった。
「もの申す、もの申す……」
たそがれ刻(どき)である。
小丸山の庵室のまえに、四郎高綱は網代笠)あじろがさ)を脱いで立っていた。
親鸞――その名を慕って、高野を下り、幾山河の長途をこえて、ようやく今、ここに辿り着いてきた彼だった。
(ああ、ここがお住居(すまい)か)
高綱は、そこはかとなく見まわして、高野の七堂伽藍の金壁と――ここの粗朴な荒壁だの貧しげな厨(くりや)だのを心のうちに対照していた。
親鸞という名は、今ではこの国において、いつのまにか大きなものとなっているが――何とその名の大きさに較べて、その住む家の小さくて粗末なことだろう。
しかも高野の金堂宝塔には、すでに真の仏教は失われてしまって、この石を乗せた茅の屋根と荒壁のうちに、日本の民衆苦をすくう真(まこと)の弥陀光がつつまれているかと思うと四郎高綱は、そうして、訪れの答(いら)えを門口で待っている間も、なんとなく有難くて――うれしくて勿体なくて――思わずそこへひざまずいてしまった。
そして彼は、奥へ向って、まず掌(たなごころ)をあわせて瞑目した後、ふたたび、こういった。
「――もの申します、これは紀州高野のやまよりまかり下りました行人(ぎょうにん)にござりますが、当所の上人に拝顔を得とう存じてさんじてござる。お取次の衆より上人まで、よろしゅうお願仕る」
ついさきごろまで、備前児島の城主であった彼である、鎌倉の覇主頼朝に対してすら、ついに頼朝の死ぬまで屈しなかった彼の膝であった。
その高綱が、大地に手をつかえて、こういった。
――と、厨のほうから、縁づたいに、紙燭(しそく)を持って通りかけた石念の妻鈴野が、ふと、門口にうずくまっている人影を見て、
「どなた様ですか」
こういうと、高綱は起って、ふたたび来意を述べ直した。
その声が、奥へ聞えたのであろう、誰か出てくる足音が聞えたと思うと、
「旅のお人」
と、ほの暗い家のうちの端に、六十ばかりの僧が佇んで、鈴野のほうへ向いて訊いた。
鈴野の手にる紙燭の小さい灯が、老僧の顔にゆらゆらとうごいた。
四郎高綱は、何気なく門口からその人を仰いで、
「あっ!」
さけぶとともに、身を弾ませて、飛びついてきたのである。
「兄者人っ」
「ええ?」
老僧は愕(がく)として、自分の法衣(ころも)の袂をつかんでいる旅人をじっとしばらくのあいだ見つめていた。
眸と眸――それはとたんに血縁のつよい情愛をたぎらせあい、眼(ま)たたきもせず、しばらくはお互いが呼吸(いき)もせずにいたが、やがて四郎高綱の眼からも、三郎盛綱の眼からも、滂沱として、湯のような涙があふれ下ってきた。
「お……おう……四郎か」
「高綱です」
「弟」
「兄者人」
ふたつの体は、かたく抱き合った。