親鸞 2016年7月13日

大祖の法然上人が亡い後の吉水禅房の人々が、これからどううごくか――また、叡山やその他の旧教の徒が、それを機会にどう策動するか。

親鸞は今、かなしさでいっぱいである。

さびしさで身も世もない。

そういう紛乱の巷のことを、思うてみるだけでも煩らわしかった。

――もう京都(みやこ)へ帰る張合いもない――といったことばは、彼の真実であった。

ありのままな気持だった。

(一刻もはやく)と、親鸞を急ぎ迎えるために、安居院の法印聖覚から、文使(ふづ)てを持って下ってきた明智房は、それでは、自分がまったく意味をなさないものになるし、また、京都で親鸞を待ちかねている人々の失望のほども思いやられて、

「何とか、お考え直し下さいませぬか、大祖法然様を失って、悲嘆にくれている念仏宗の方々が、今また、あなた様も、都を見限ってお帰洛にならぬと聞いたら、もう大谷の法燈は、真ッ暗なものになり終ってしまうでしょう。

――どうぞお師法然上人のご遺志を、ふたたび都において、赫々(かっかく)と弘通(ぐずう)あそばすというご勇気をもって、これより東海道をお上りくださいますように、吉水一門の遺弟を代表いたしまして、私からもおねがい申し上げまする」

「いや、それは、親鸞の任ではありませぬ、都において、そういうご遺志をついで賜わるお弟子は他に幾人もおります。

――親鸞は、むしろ、これから、文化に恵まれない辺土の田舎人のあいだに交じって、土と共に生きもし、自分の心も、もっと養いたいと思います。

そのほうが、愚禿には性が合ってもおるし……」

と、ことばはおだやかであるが、信念はひるがえしそうもないのであった。

やむなく、明智房はまた、そこから親鸞のことばを伝えるために、京都へ引っ返してゆくほかなかった。

師弟五人の旅は、にわかに、その日から的(あて)を失ってしまった。

ひょうひょうと風にまかせて流浪をつづける親鸞の心らしいのである。

二日も三日も、黙々として、その的のない道を、五名は歩いた。

「もしもし……それへおいであるのは、角間(かくま)の蔵人殿ではおざらぬか」

碓氷川のほとりで、こう声をかけた一群(ひとむれ)の旅人があった。

三頭の荷駄を曳かせて四、五人の男を連れた郷土ふうの男だった。

「角間の?」

と、親鸞に付き添うている人々は一様につぶやいて、

(誰のことをいうのか?)と、いぶかった。

駒の上から下りた郷士ていの男は、西仏房のそばへ来て、肩をたたいた。

「ウム、やはりそうじゃった、角間の蔵人うじ、わしらは、穂波村の者だよ、あんたの若いころから知った者だ、まア何年ぶりだか分らねえが」

西仏は思い出した。

彼の故郷は信州角間村である、そのころは、角間の蔵人と呼ばれていたが、あまり遠い昔のことで、自分の名とも思われなかったのである。

この人々に出会ったのが機縁で、親鸞と西仏と、光実、了智の四名は、ふたたび碓氷を越えて、信州佐久郡へ行くことになった。

そのうち、生信房が一人ぬけたのは、彼もこの機に、久しぶりで郷里へもどって、多年の悪名を洗い、郷土のために、これからの半生を念仏の弘通にささげたいという心願を訴えたので、親鸞もそれをゆるして、碓氷川から北と南へ袂を分ったためであった。