そこはつい昨日まで、ぼうぼうと芦の生えていた沼だった。
所々の水田も、地味が悪くて、稲は痩せていた。
人の数より、はるかに、五位鷺のほうが多かった。
灰色の害鳥の群れが、わが物顔に、田を占め、木の実を盗んで、人間は鷺以下の者としか見えないほど、文化の光がなかったのである。
下野国芳賀郡(しもつけのくにはがごおり)の大内の庄とよぶ土地だった、そこの柳島に、一粒の念仏の胚子(たね)がこぼれたのは、二、三年前だった。
事はその胚子の結果である。
このころになって、常陸とか下総、上総あたりの念仏の諸弟子が踵(きびす)をついで、この柳島の地方へ入ってきた、遠くは、陸奥(みちのく)の果てからさえ、聞き伝えた門徒が来て、旅装をここで解いている。
小屋が建った。
人々は、そこへかたまって、炊事の煙を立て初めた。
土工や石工が集まってくる。
大規模な土木が興ろうとするものらしい。
たちまち、附近の山が削り取られて、赤土の肌が南向きにだんだんに拡がってゆく。
蟻が物を運ぶように、山を切り崩した土は、柳島の芦の沼地を埋めて行った。
原始人の踏んだままにひとしかった茅原や青い沼水が、またたくうちに新しい土で盛り上げられていった。
その地盤の上に十二間(けん)四面の伽藍の礎(いしずえ)が、さながら地軸のように置かれた、堂塔内陣の墨縄は張りめぐらされ、やがて檜の太柱と、巨大な棟木と、荘重な梁も組まれた。
「人の力は偉いものだのう……いや仏のお力だ。――ついきのうまで、ここが五位鷺の巣であった古沼とは、もう思うてみても、考えられぬ」
大内国時はつぶやいた。
普請場の新しい大地に床几(しょうぎ)をすえ、側にいる建立奉行の藤木権之助忠安へ話しかけたのである。
国時は、当国の下野城の城主だった。
いつか親鸞の徳に帰依して、そこへ参室していたが、稲田の上人の庵室は、あまりに手狭くもあり、裏方や子たちの生活にも不便が多いので、自分の領地の宮村へ、上人を迎えたほどの彼であった。
けれど大内国時は、それではまだ満足しなかった。
近国はおろか、陸奥にまで、すでに上人の徳はあまねく行きわたっているし、念仏宗に対する人々の信仰は、日に月に旺(さかん)になってきている。
そして、その敬礼(きょうらい)の中心を求めてやまない勢いにもなっていた。