「学問」という言葉を紐解くと、「問いを学ぶ」と読めます。
そうすると、「学問」という言葉には、答えを知るということではなく、問いそのものをもって学びを深めていくところに、大きな意味が込められているように感じられます。
仏教では、生き方において常に自分のあり方を問うていく姿勢を大事にします。
それは、自分本位にふり返るということではなく、仏さまの教えを拠り所とし、仏さまの教えに自分の生き方を尋ねていくということです。
例えば、太陽の光に照らされたとき、自らの影が映し出される様子をイメージしてみてください。
影が見えているということは、光に照らされ、その光に包まれていることに他なりません。
光によって自らの存在を知ることになります。
仏さまの教えを光と譬えたとき、そこに見えてくる、あるいは知らされる私の姿とはどのようなものでしょうか。
仏教では、欲や煩悩により気の向くままに生きる私の姿を「無明(むみょう)」と呼びます。
けれども、肝心の私はどうでしょうか。
無明の中にいるとは一つも感じていません。
むしろ欲や煩悩こそ、明るく輝きのあるものとして見ています。
まさに、欲や物に目がくらむ私でしかありません。
暗ければ「くらむ」ことなどないはずなのに…。
このように、自分のことは自分がよく分かっているという思い込みこそ、無明そのものであると言えます。
そのような自らの世界に引きこもる私に、仏さまは光を当て、真実に目覚めよと願い、呼びかけています。
自分本位にしか生きられない私の生き方を、仏法に問い尋ねていく生き方、そしてできる限り身を慎み、少しずつでも欲や煩悩を整えていく生き方へと身を転じていくことが、仏教徒としての歩みではないかと感じています。