では「上がり坂・下り坂・まさか」という坂をどう生きたらいいのか。
私はやはり、形があるものを見ていたらだめだと思うんです。
ところが私たちは、形があるものばかりを見ています。
でも、形のあるものは必ず消滅するむなしいものです。
私の亡くなった母は明治の人ですから、「もったいない」と言って何でもとっておりました。
それで母が亡くなったとき整理をしたら、白い敷布とタオルが百組ぐらいあったんです。
香典返しにもらったものです。
私もそんなにいりませんから、老人ホームに電話して、「差し上げたいのですが、引き取っていただけますか」と言いましたら、「全部真っ白なら頂きます」と返事が返ってきました。
絵柄があると「あの人の方がきれいで、私の方は汚い」とか言ってもめるんだそうです。
白もあるけど、絵柄がたくさんついているものがほとんどです。
結局そこへは寄付せずに難民の方へ寄付することにしました。
しかし、このようなことを考えますと、やはり日本という国はぜいたくなんですよ。
また、この頃はものを差し上げてもハガキ一枚もよこさないです。
着いたんだか着かないんだかわからないじゃないですか。
それで恐る恐る電話をしてみると、「こういうものを送ったけど、着いたかしら」「ああ、来た来た」と。
私はそういうことを言った人には一切ものをあげることをやめたんです。
つまり、ものがいっぱいあるから感謝しないんです。
ものを差し上げるということも考えなければいけない時代になりました。
私は広島で被爆しました。
あの昭和二十年八月六日、一発の原子爆弾が広島に落ち、三日三晩燃え続けていっぺんに広島が灰になりました。
形があるものが全部なくなったんです。
それを見たときに
「ああ、長い歴史の中で、営々と積み重ねてきたものが、たった一発の爆弾でこんなにも無残になる。形があるものを見てはいけない。形がないものにこそ尊いものがあるんだ」
ということを、そのときショックと共に心に感じました。
私はどちらかというと、形あるものを買ったりするのがあまり好きではないんです。
ただ飲んだり食べたりするほうが好きです。
なぜかと言いますと、それは飲んだら形がなくなるからです。
水のように見えていたものがなくなってしまう。
料理もそうですね。
食材を買ってきて作って食べてしまったら、何も残らない。
ですから、形のないものこそ人間に素晴らしい知恵や暖かい心をくれるんだということです。
しきあも、一生懸命作ってくださった人に対して、手を合わせて「いただきます、ごちそうさまでした」と感謝して食べないとだめなんです。
お酒もそうです。
焼酎もそうです。
作った人の顔が見えるような飲み方をしてほしいと思います。
「ああ、このおいしい焼酎は、どんな顔をした人が作ったのかなあ」と飲むと、これが人間に豊かな心を植え付けてくれるんですね。
だから、私はものを作りだす人が一番すばらしいと思うんですよ。