最近、私はいちき串木野市の羽島にあります「薩摩藩英国留学生記念館」のプロデュースに携わる機会をいただきました。
1862年に、皆さまもよくご存知の生麦事件が起こりました。
イギリス人の1人を薩摩藩士が横浜郊外の生麦という場所で斬殺した事件ですが、この事件の発生がその後の歴史を大きく変えました。
事件を知ったイギリスが激怒し薩摩藩はその責任を負うことになりますが、のらりくらりと代償にも応じないでいたところ、業を煮やしたイギリスの軍艦7隻が鹿児島湾に来て戦争になりました。
いわゆる薩英戦争です。
この戦争はどちらが勝ったという結論には至りません。
鹿児島は城下を焼かれ、集成館も焼かれるなど甚大な被害を受けました。
しかし、島津斉彬が周到に整備した要塞などが功を奏し、イギリスは薩摩の実力に一目置かざるを得ませんでした。
講和の際に、薩摩藩はイギリスに対して謙虚に先進文明等に関し教えを乞う姿勢を示しました。
重豪(しげひで)や斉彬など歴代の藩主が範を示したように、進取の精神に富む薩摩人は、戦争をした敵国に対して頭を下げ、若い連中を勉強させてくださいと依頼しました。
それに対し、紳士淑女の国イギリスは快諾し、戦争とか産業のことばかりでなく、法律や教育のことも学びなさいとのアドバイスもしてくれました。
そのような経緯で、薩摩スチューデントが、イギリスを足掛かりとして世界に向かって出かけていく運びとなったのです。
1865年に、現在のいちき串木野市の羽島から19名の若者たちが出発しました。
最年少は13歳の長澤鼎(ながさわかなえ)、最年長は32歳の寺島宗則(てらしまむねのり)でした。
のちに産業界で活躍する五代友厚(ごだいともあつ)、日本の電気通信の楚を築き外務卿を務めた寺島宗則、初代文部大臣となった森有礼(もりありのり)、国立博物館の整備に尽力した町田久成(まちだひさなり)、北海道開拓でビールの醸造に成功した村橋久成(むらはしひさなり)などがいました。
まだ、海外渡航が幕府によって禁じられている時代ですので、渡航は密航でした。
藩庁から前日に彼らに渡された辞令が留学生記念館に展示してありますが、それには藩に影響が及ばないように「甑島大島方面に視察に行ってきなさい」と書いてあります。
彼らは その辞令を受け取って、これでイギリスに行くようにということだと斟酌(しんしゃく)するわけです。
もし幕府に発覚したときに藩は「いや、藩は甑島とか奄美大島に行ってきなさいと言ったんですよ。
彼らが勝手に脱藩して行ったのですよ」というふうに誤魔化せる訳です。
彼らはそれを承知の上で引き受けて出発して行ったのです。
そして、途中経由した香港のガス灯の輝きや、インド洋上の船中で食べたアイスクリームの製造技術に驚いたりしながら、2か月かけて、イギリスのサウサンプトンに到着しました。
城下を出発してから4か月が経過していました。
当時イギリスがどういう状況であったかというと、1700年代に蒸気機関が発明されていて、鉄道が通っていました。
ウエストミンスター宮殿のビッグベン、今はエリザベスタワーと呼ばれていますが、そのときは火事のあと再建されてまもないときでしたので、彼らが見たときは本当に美しかったことでしょう。
彼らは貪欲にいろんなものを見聞し、学びとりました。
ロンドンのグリニッジ天文台からテムズ川を挟んだ反対側にある王立の兵器工場や、蒸気機関を使った農機具や紡績のための大きな歯車を見て驚嘆しました。
フライホイールと言いますが、同じものを五代たちが買い付け、鹿児島に持ち込んで鹿児島紡績所を作りました。
石造りの工場を造り、イギリス人の技師たちを連れてきて蒸気機関を使って国内で初めて紡績をやりました。
この技術が日本中に広がり、皆さんご存知のカネボウとか、クラボウとかが操業するきっかけになったのです。
隆盛を誇った日本の紡績工業はまさにここがスタートだったのです。
大きな船をメンテナンスするために長崎に大きなドックを造ったのも彼らです。
グラバーの協力を得て造りました。
日本は遅れているぞと思ったから、彼らは必死でした。
それを加勢したのがイギリスの商人グラバーたちだったのです。
長澤鼎は若さのためにロンドン大学に入学できず、スコットランドで勉学するのですが、グラバーの実家にお世話になりました。
長澤鼎はその後アメリカに渡り、カリフォルニアでブドウ王となってカリフォルニアワインを世界に広めました。
仙巌園を空から見た写真があります。
この辺りはすべて工業地帯でした。
一時期は1500人もの人間が働いていた大工場がありました。
日本でもっとも早い時代の工業コンビナートです。
薩摩は当時最先端の技術を持っていました。
吉野の寺山の炭窯(すみがま)や関吉の疎水溝の水路もこれらとともに世界遺産に指定されています。
関吉から磯の斜面まで水を引き、その水を使って水車を回し、その動力で大砲に穴を開けていました。
大砲は仙巌園の中に石で造った反射炉があり、溶鉱炉で溶かした鉄を鋳込(いこ)んで砲身を作りました。
オランダの本に載っている図面だけを頼りに反射炉を作り上げたのです。
寺山の炭窯では、反射炉で鉄を溶かすための燃料を作っていました。
鹿児島は石炭が出ないから木炭でつくるしかなかったわけです。