この夏、父が体調を崩し2週間ほど入院することがありました。
これまでいたって元気で、晩酌も欠かしたことのない父でしたが、初めての入院でしたので私も動揺が大きく、病室のベットで横になる父の姿を目にした時、言いようのない感情を抱いたことです。
普段会えば「おじーちゃーん」と駆け寄っていく子どもたちも、いつもと様子の違うじいちゃんの姿を目の当たりにし、おっかなびっくり私の背中に身を隠し、チラチラとじいちゃんの姿を窺うように不安そうに見つめる瞳もまた、私の心を映し出しているようでした。
『いつまでも、あると思うな、親の恩』
両親ももう70を過ぎ、元気とはいえ、やはりいつか迎える別れの時を思うと、今一緒に居られるこの時間がかけがえのないひと時であると感じずにはおれません。
退院した夜、久しぶりに焼酎を飲む父の姿を感慨深く眺める自分の姿がありました。
ようやく「当たり前」という日常に、「有難し」と頷く瞬間だったのかもしれません。
臨終という言葉があります。
よくドラマなどで、「ご臨終です」と医師が告げるシーンを見かけます。命の終わった時、亡くなった時をご臨終というのだと、私もこの年までずっとそう思っていました。
しかし、臨終とは、亡くなることではないのだと最近知りました。
臨終は、終わりに臨むと書きます。命の最後の場面と捉えがちですが、その限られた時間だけをいうのではなく、いつ、どこで、どうなるか分からない私の命は、まさにいつでもどこでもが臨終そのものであるといえます。
けれども若いうちは、元気な時は、おそらくそういうことは意識すら持たないのが私の実態でありましょう。たとえいっとき、何かをきっかけにしてそう感じる時間はあったとしても、「慣れ」てくればまた忘れていってしまうのも私です。
そういう自分であればこそ、その都度、その都度、ふり返り、見つめ返しの時間が「仏教」として私に届けられてあるのかもしれません。
「一寸先は闇」
「一期一会」
「有難う」
よく耳にする言葉ですが、臨終という意味を知って聞くと、今までとはまた違ってその言葉の意味が響いてくるような気がします。