2021年10月法話 『人は弱いからこそ 支えあって生きる』(中期)

「人間」というのは、「人の間」ということですが、これは「人は独りでは人間になれない」ということを物語っているのだと言えます。なぜなら、「人の間」といっても、それは「ただ単に存在する」ということではなく、具体的には「人と人の間を生きる」ということに他ならないからです。

また「生きる」とはどのようなことかというと、人それぞれにいろいろな言い方があるかもしれませんが、「誰かと心を通わせること」という表現には、多くの人が頷くのではないかと思われます。私たちは、何か嬉しいことがあった時には、そのことをすぐに誰かに知らせたくなります。子どもの頃を思い返していただくと、学校で嬉しいことがあった時など、帰宅すると家族の一人一人にそのことを伝えていたのではないでしょうか。そして、一緒に喜んでもらえると、とても嬉しかったことと思われます。けれども、どんなに嬉しいことがあったとしても、もしそれを語り伝えたい人が誰一人いなければ、かえって空しくなってしまうのではないでしょうか。一方、どんなに悲しいことや辛いことがあったとしても、「あの人に聞いてもらいたい」とか、「あの人なら、黙って聞いてくれるに違いない」そんな人が一人でもいれば、人は悲しみや苦しみの事実によってつぶれてしまうことはなく、何度でまた立ち上がっていくことができると言われます。

ところで「弱い人」に対する「強い人」とは、いったいどのような人なのでしょうか。腕力が強いとか、精神力が強いとか、いろいろな強さが考えられます。例えば、オリンピックで金メダルを取ったり、世界選手権で優勝したりして「世界最強」と称賛されるような人であっても、それはあくまでも他の人たちに対してであり、その大会においてのことです。確かに「連続」で栄誉を手にする人もいたりしますが、勝ち続けるにしてもそれには限りがあります。そして、どんなに最強の人であっても、実はなかなか勝てない相手がいます。それは、他ならぬ自分自身です。競技等で誰に対しても無類の強さを発揮していても、こと自分に対していつまでも勝ち続けるのはなかなか難しいものです。

仏教では、私を脅かすものを「魔」といいます。これはサンスクリット語のマーラを音写した「魔羅」を短縮したもので、そもそもは生命を奪うものを指す言葉でしたが、仏道の修行を妨害したり、人の行う善事を邪魔したりするもの、具体的には「煩悩」を意味するようになりました。

仏伝には、「お釈迦さまが悟りを開かれた際に、魔王が娘を派遣してお釈迦さまの心を乱そうとしたり、睡魔など12の軍勢を送って悩ませたりしたが、お釈迦さまが地面に触った瞬間に退散した」と伝えられています。この魔王やその軍勢は、実在して悟りを妨害したのではなく、お釈迦さまの心の中に存在した悟りへの障碍を文学的に表現したものだと言われていますが、この内なる「魔」は、悟りを開かれる前のお釈迦さまの心の中にだけ存在したのではなく、すべての人の中に存在し続けているものです。

親鸞聖人は、この「煩悩」のことを「身をわずらわし心を悩ます」と述べておられますが、この内なる「魔」、すなわち「煩悩」によって私たちは、欲に惑い、怒り狂い、愚癡をこぼしながら、悪戦苦闘の日々を過ごしているのだといえます。そして、凡夫である限り、一見、強靱な肉体と精神を持っているような人であっても、ふと気がつけば、煩悩という自身の内なる魔によって、自分のあるべき姿を見失い惑わされてしまっているのです。したがって、どんなに「強い」と思われる人であっても、仮に今日は煩悩に打ち勝つことができたと思えても、それを継続するのはなかなか難しいものです。それは、お釈迦さまのように悟りを開くことができなければ、魔との戦いは死の瞬間まで続くからです。

あるいは、特にそのようなことを意識することもなく、煩悩のままに流されて生きれていくことを良しとするのであれば、あまり苦悩するということはないのかもしれませんが、自らの煩悩と真摯に向き合い何とか克服しようと努力すると、文学的表現を用いれば、「魔王とその軍勢の強さに対し自らの弱さが痛感されるばかり」ということになるかもしれません。なぜなら、親鸞聖人は「惑染の凡夫」と言い表しておられるのですが、これは、私たちは時々迷うのではなく「常に惑いに染まっている凡夫」だからです。

そこで、親鸞聖人は、念仏者として生きていることのしるしというものを「ねんごろのこころ」を持つということの上に見出して行かれます。「ねんごろ」というのは、「ねもころ」という言葉から転じた言葉で、「根」と「も」と「凝(ころ)」という字で「ねもころ」、あるいは「根」と「如(もころ)」という字を書いて「ねもころ」と読むのだそうです。そして「ころ」というのは「絡む」という言葉に通ずるといわれています。

また、「辞典」には「根も絡みつくほどに」とあり、相手の人とそれこそいのちを一つにする、木がお互いに根を絡みつけ合っていると、その根を引き離すことができない、別々にならない。そういう一つになって生きるという意味が「ねもころ」という言葉の意味として説かれています。つまり、「ねんごろなこころ」というのは、相手と根を一つにするという心を表そうとする言葉で、相手の気持ち、さらに言えば相手の存在を思いやる心を物語るもので、そのような心を持つことが念仏者の姿だと教えておられるように窺えます。

このような意味で、「支え合って生きる」というのは、親鸞聖人の言葉によれば、互いに「ねんごろのこころ」を持って生きるということで、相手の存在そのものを常に心にかけ、思いやり合いながら生きるということです。ただし、思いやるといっても、自分の思いで思いやるのではありません。自分の思いで思いやるという時には、自分はそのようなつもりであっても、相手にとっては煩わしいだけということもあるからです。いわゆる「小さな親切、大きなお世話」であったりすることもあります。

「ねんごろ」というのは、ただ単に相手を思いやるのではなく、相手を思いやる心を持って相手の心に尋ねていくということです。それは、自分なりに相手のことを考えて一方的に押しつけるのではなく、精一杯のことをしながら、しかもそこに相手の気持ちを思いやるということが大切になるのだと思います。

私たちは、病気になれば死ぬのではないかと恐れたり、うまくいかないことがあると目に見えない霊や何かの祟りを畏れたり、思い通りにならないとその原因を他に転嫁したりします。そして、一人ではなかなか生きられない存在です。だからこそ、互いを支えあい、思いやりながら生きる「ねんごろのこころ」を持つ生き方を求めたいものです。