「悪のみ」の自覚がもたらすもの

『涅槃経』という経典の中で、お釈迦さまに対して弟子が次のような問いかけをしたことが伝えられています。

「お釈迦さまは仏法を信じない者には、善法がないと言われています。けれども、仏法を信じない人であっても、その社会において師や友人あるいは父母、親族、妻子に対しては、純粋な愛情でもって接し、日々をよく生きようと努力してます。それは善ではないのでしょうか」

すると、お釈迦さまは、それに対して

「仏法を信じない人々でも、よく生きようとさまざまな努力をし、愛し合い、助け合い、施し合って、お互い知識をみがいている。けれども、その一切が邪業なのである。何故か。彼らは因果の道理を求めていないからである」

と、答えておられます。

さて、ここでお釈迦さまが問題にしておられることは何かというと、仏法を信じていない人たちが「因果の道理を求めていないこと」です。では、「因果の道理」とはどのようなことなのでしょうか。この場合、「仏教が意味する因果の道理」と、「一般に理解されている因果の道理」とを明確に分ける必要が生じます。なぜなら、この世の中において因果の道理を求めない人はいないと思われるからです。

例えば、不幸な状態に陥っている人がいるとします。その人に対して「この仏さまを、あるいは神さまをお参りしなさい。そうすれば、あなたは幸福になります」と説く教えがあるとします。そのような教えであっても、一応因果の道理を説いているといえます。また、仮に「善因善果という道理など存在しない」と言って因果の道理を否定する人がいたとしても、それでもやはりその人は「存在しない」という因果を信じていることになります。したがって、この世の中には、因果律を認めない、あるいは因果を問題にしないという人は一人もいないということになります。

では、「仏教が問題にしている因果」とは、いったいどのようなことなのでしょうか。ここで、私たち浄土真宗の教団が人々に語りかけている因果の道理について考えてみることにします。浄土真宗のご門徒の方が使われる聖典には「浄土真宗の宗風」として「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷や呪術を行わず、占いなどの迷信に頼らない」ことが示されています。このように「深く因果の道理をわきまえる」といわれると、私たちはすぐに科学的な見方の因果の道理をそこに重ねてしまいます。

具体的には、我が家に不幸なことが続いたり、自身が重い病気にかかったりすると、「先祖に迷っている魂があるのではないか」とか、「何かの霊に憑りつかれているのではないか」といったようなことが、しばしば信仰の世界でいわれています。このような信仰態度に対して、浄土真宗では「科学的に因果の道理をわきまえて、そのような迷信に惑わされてはならない」といっているように思われるのですが、実はこれは大きな間違いだといえます。

なぜかというと、親鸞聖人が生きられたのは今から八百年も前の時代だからです。したがって聖人は、当然現代の人々が持っているような科学的知識を持ってはおられません。そうすると、迷信を破るための科学的な知識は存在していないので、聖人も時代の制約を受けて、他の人々と同じように、台風が来ると「山の神が怒っているのではないか」とか、地震が起きると「地の神の呪いではないか」とか、感染症が流行すると「怨霊の祟りではないか」といった知識水準であったと考えられます。

けれどもここで重視すべきことは、聖人はそのような制約の中にありながら、現在の私たちから見ても迷信的な考えや事柄に一切惑わされることがなかったということです。この点が極めて重要であって、私たちは「それはどうしてなのか」を問うことが大切です。その一方、現代の科学的な知識に基づいて、知性的・理性的な生き方をしている人々の中に、依然として迷信に惑う人がいるのですが、なぜ私たちは科学的な知識を持っているにもかかわらず、迷信に弱いのかという点を深く考える必要があります。

さて、仏教の因果とは何かという問題に戻ります。この道理は明確で、「因と縁と果との関係」なのですが、「因が真実であって、その因が真実の縁にふれて果が生じた場合、その果は必ず真実である」。これが、仏教の意味する因果の道理です。

着目したいのは、この因と縁の関係です。「因と縁のどちらかに、ほんのひとかけらでも不実が含まれていると、結果は必ず不実になる」これも仏教が意味する因果の道理なのです。そうすると、仏道者が求めている、仏果に至る因果の道理とは、まさにこの一点を問題にしているのだといえます。

そこで、親鸞聖人の思想ということになるのですが、聖人の仏道においては、何が仏になる因であり縁だったのでしょうか。聖人の思想をうかがうと、阿弥陀仏の大悲の中に生かされているという「信心」が因とされています。その心は、阿弥陀仏の真実の心とまさしく一つになっているので、この因は真実だといわれるのです。しかもその「信心」は、「念仏」という真実の縁にふれて生じているのです。

この念仏とは、阿弥陀仏からきたる教法ですから、この縁は真実そのものです。そこで、聖人は「獲信の念仏者は必ず仏になる」という真実の「果」を見られたのです。そして、このことを踏まえて、「この世でどんなことが起きても、必ず浄土に生まれる」と信じておられたのだと言えます。

「なぜ浄土に生まれることができるのか」というと、因と縁が真実なのですから、必ず真実の浄土に生まれる果が得られるのは自然なことだからです。親鸞聖人は、このような因果の道理を頷いておられたので、この世の無常をまったく畏れてはおられなかったのだといえます。

次に、この視点から現代に見られる科学的行為としての因果の道理について考えてみることにします。科学的行為において因といっているのは、科学者の心そのものであり、ひいては現代人一人一人の心とその行為性だといえます。そうしますと、現代の人々はいったいどのような心を持っているのでしょうか。

親鸞聖人は『涅槃経』を引いて、「世の中には四つの善い行為があり、人々はその善行を求めて、つまるところ、悪の果を得ている」と述べておられます。その四つの善い行為とは「勝他」「利養」「他属」「非想非非想処」です。

最初の「勝他」とは「他のものよりも優れていたい」あるいは「他の者に勝ちたいという思い」です。まさに、私たちの生活そのものだといえるのですが、人は他の者に勝つために、他の者よりも勝るために、目標を定め理想に向かって懸命に努力します。そのために仏教を学ぼうとするのですが、その努力が悪の果を招くことになるといわれます。

二番目の「利養」とは、「自分自身のために利益を得ること」です。御利益と言い換えてもよいのですが、自分自身の利益を求めることです。そのために戒律を守るのです。戒律を守るということは、非常に徳の高い人間性を獲得し、他の人々から尊ばれ敬われる人になることを目指すということで、そのような人になろうと努力することによって、名誉や高い地位を得たりすることにつながります。結果として、財産を蓄えたり、名声を得たりする見栄えのよい姿があらわになります。しかし、そのような結果を招くことが、つまるところ悪の結果を得ることになるといわれます。

三番目の「他属」というのは、「他人を自分の支配下に置くこと」です。他の者が自分に従うようにするため他人に一生懸命施しをしたりするのですが、自分の配下の者を作るための行為は、やはり悪の結果を招くことになるといわれます。

四番目の「非想非非想処」とは「想うことでも想わないことでもない」ということで、いかなることにも全く心が動じない自分になることです。最高の安住の境地を得ること、あるいは絶対的な自己満足を得ることで、そのような安住の場を求めて一生懸命に努力することは、結果として悪の果を招くといわれます。

そこで、私たちが今求めている善とは何かを振り返ってみると、例外なく先にあげた四つの善に重なります。そうすると、人は誰もがまさに悪果を招く善しか行えないということになります。

そうすると、もしほんのわずかでも、こられの心があって科学的な行為をしているとすれば、それは「迷い」ということになります。それと同時に、その科学的行為によって生み出されている事柄、つまり人間によって作られた社会や環境が、「縁」として、もし人々に悪い影響を及ぼす存在であるならば、これも「迷い」ということになります。

一般に「科学には善悪は存在しない。真理を示すだけだ」と言われますが、善悪を問題にする人間の心を離れて科学が存在するということはありません。そうしますと、その科学に携わる人間の心にもし欲望が存在していたり、その科学の結果によって生み出された事柄が、一見どのように良いことであったとしても、その結果が後に少しでも悪影響を及ぼしたりするようなことがあれば、その科学から生み出されているすべての事柄は、明らかに間違っているということになります。

このように見てくると、科学でいう因果の道理を信じているということは、実は仏教が意味している因果の道理を信じていないということになってしまいます。したがって、現代人が求めている豊かさとか便利さ、快適さとか心のやすらぎ、あるいは平和や平等の問題、それらの一切が果たして真の意味で真実といえるかどうか、やはり問題にしなければならなくなります。

仏教が意味する因果の道理から見ますと、お釈迦さまが説かれたように、今日の世俗における出来事は、すべて邪業ということになります。なぜその一切が邪業かというと、人々は仏教の因果の道理を信じていないし、仏教の因果の道理を求めていないからだということになります。

そういう点を踏まえて、親鸞聖人はこの世における私たちの姿を

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもとそらごとたわごと、まことあることなきに…

と述べておられます。この言葉の中の「煩悩具足の凡夫」は因の問題です。つまり自分自身が行っている因を示しておられるのです。それに対して「火宅無常の世界」とは、その因とふれあっている縁の問題です。自分の行為の一切を正しく見つめてみますと、そのすべては「よこしまな心」を因として動いています。しかも、それがふれ合う縁の一切もまた「よこしま」だとすると、「よろづのことみなもて、そらごとたわごと、まことあることなきに」という真理が、ここに必然的に導かれることになります。

このように、仏教が意味する「因果の道理」という視点から、人類の歴史や社会を超えて、一切の人々に共通する善とは何かを求めようとすると、やはり『涅槃経』に説かれているような「よこしまな心」を除く方向で、因も縁も果も真実であるように社会を作らなければならないことになります。けれども、それはとても不可能なことですから、ここに初めて人間としての「悪のみ」という自覚が生まれることになります。そして、この「悪のみ」と自覚するところに響いてくるのが、「無条件にして私を救う」というお念仏の教えだといえます。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。