親鸞聖人は『涅槃(さとり)に至る真実の因はただ信心である』と述べておられます。
そこで、浄土真宗においては「信心」が最も大切であるといわれています。
けれども、信心が重要だからといって、もし「信心」でもって教団を統一しようとすると、非常に難しい問題に突き当たります。
例えば「あなたが信じているその信心の内容を聞かせてください」と問われたらどうでしょうか。
おそらく、誰もがそれぞれに自らの信心の味わいを述べられることになると思うのですが、それが全く同じということなどありえません。
それは「念仏をどのように信じるか」ということでその内容が変わるからなのです。
そのため、もし「信心」で教団を統一しようとすれば、おそらく教団そのものがバラバラになってしまうことと思われます。
親鸞聖人は「一切の諸仏は阿弥陀仏の教えを説くために世にお生まれになる」と述べておられます。
だからこそ、釈尊は阿弥陀仏の教え、つまり「念仏の法」を説くためにこの世で「仏」になられたのであり、それ故に『無量寿経』という経典の終わりに示されるように、釈迦仏の次に仏になる弥勒菩薩に「一声」の念仏の真実を付属されたのです。
ではなぜ「念仏」なのでしょうか。
それは、阿弥陀仏はその本願に『本願を信じ、念仏を喜ぶ一切の衆生を仏にする』と誓われているからで、この念仏の素晴らしさに勝る仏法は他には存在しません。
だからこそ、釈尊は弥勒菩薩に念仏の真実を伝えられたのです。
これを受けて、曇鸞大師も「共に弥陀の浄土に往生出来るのは、同一に念仏しているからだ」と説いておられます。
このような意味で、私たちの浄土真宗の教えの中心は、実は「念仏」であるといえるように思われます。
それはまた、「歎異抄」第二条に
『親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり』
と、「ただ念仏して弥陀にたすけられよ」と伝えられることからも窺い知られます。