なぜいま念仏か11月(後期)

このような問いが発せられますと、一般に私たちはこれらの問題を何とか理性の範疇で説明、理解できるような答えを一心に探し求めようとします。

「西方」とは日が没する方向で、それは非常に清浄で静寂な世界であり、一切の寂滅を私たちの心に抱かしめてくれます。

そこで、そこに私たちの最も理想と思える世界を建立し、その浄土の荘厳を通して、仏教の根本義である空とか涅槃の意味をここに明らかにしようと試みます。

あるいは「阿弥陀」という名号は、光明無量・寿命無量という意味であり、それは無限の智慧と慈悲を象徴していることを踏まえて、この仏は無限の空間と無限の時間の一切を覆い尽くし、完全なる智慧と慈悲の功徳でもって、一切の衆生を摂め取られるのだと説きます。

また、菩薩が自らの誓願を名号に託して仏に成られることに着目して、仏の正しい覚りは、そのまま名号の成就を意味し、名号にはその仏の功徳の全体が有せられていますので、名号が仏そのものと不二だと受け止めます。

そして、一声の称名「南無阿弥陀仏」が称えられる時、その人の心は阿弥陀仏の功徳で満ち満ち、ここに完全なる救いが成り立つことになるのだと説くのです。

このように、名号や浄土の真実性を極めて精緻に論ずることになるのですが、それがどれほど論理的に説き明かされたとしても、最終的にはやはり知的理解に留まってしまうのではないでしょうか。

なぜ名号が阿弥陀仏と一体なのか、はたして私は光明無量・寿命無量という仏を、私の全人格をなげうって信じることが出来るのか、一心に念仏を称え、浄土に生まれたいと願う心が、この私に生じるのか、むしろ私たちの中にはこれらの疑問が次々と生じることになるのではないかと思われます。