「親鸞聖人の他力思想」2月(前期)

 そこで、親鸞聖人の書物から

「他力本願」

という言葉が出てくる文について考えることにします。

まず、

 ただこれ自力にして他力の持つなし。

(曇鸞『浄土論註』『行巻』引文)

という文です。

これは『教行信証』の

「行巻」

に引用されている曇鸞大師のお言葉です。

曇鸞大師という方は、私たちが仏になるには、阿弥陀仏の力にたよらねばならないということを基本的に明らかにされた方です。

そのとき、この世で、なぜ私たちは仏道を歩むことが困難なのか、その理由を五つの項目によって説明しておられます。

 その第一は、たとえば二人の行者がいて、一生懸命に行にはげんでいるとします。

その内の一人の行者は

「自分はこんなに素晴らしい行をしている。

自分の行いにしたがった者は、このような功徳が得られる。

また、自分の行にしたがえば本当に素晴らしいご利益を得ることができる」

と吹聴しているとします。

それに対してもう一人は、一生懸命にただ黙々と行をしています。

 どちらも仏教の行者のように見えるとしますと、この場合人々はどちらの行者の教えに從うでしょうか。

ただ黙々と行をしている人のところに行くのではなく、

「自分の教えは素晴らしい。

この教えに従えば、必ずあなた方はご利益を得ます」

と説く方に、多くは関わってしまうのです。

 ご利益を説く方が偽物なのですが、私たちは現世の功徳が得られる偽物の方に走ってしまうのです。

そりとき、もしお釈迦さまがいらっしゃって

「こちらは正しい」

「こちらは間違っている」

と教えてくだされば、人はお釈迦さまの教えに従って、その偽物のところにはいかないかもしれませんが、仏さまがいらっしゃらなかったら、やはりご利益の得られる方に行ってしまいます。

 これが人間なのです。

そういう外道の行がいかにも仏教的に洗練されると、本当の仏教は潰れてしまうといわれるのです。

第二は、今度は自分だけの功徳を求めている者ばかりが集まっている社会では、他のためにするという尊い行いは消えてしまうということになります。

 第三は、仏道は深い反省をもたらす教えですが、反省のない者ばかりの社会では、真の仏道は成り立たなくなります。

 第四は、見せかけの善を問題にします。

例えば、政治に携わる人が見せかけの善をひけらかして、

「これが正しいのだ」

といって社会が支配されますと、本当の清らかな善はつぶされてしまうことになります。

お釈迦さまが亡くなって無仏の時代になると、そのような間違った教えがはびこりますので、仏道は非常に難しくなるといわれるのです。

 そして、最後に説かれているのが、この

「他力の持つなし」

です。

どういう意味かといいますと、仏になるためには、自分の力のみでは不可能だということです。

私たちは阿弥陀仏の本願力にならない限り仏にはなれません。

けれども、その仏力をだれも頼まないので、私たちが仏になるのは難しい。

これが

「他力の持つなし」

の意味です。