愚(ぐ)禿(とく)というのは親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)が35歳の時に越後(えちご)流罪(るざい)を契機に自身をそのように呼称されたといわれています。
親鸞という名は浄土教の教えを伝えた七高僧の中のインドの天(てん)親(じん)菩薩の親、中国の曇鸞(どんらん)大師の鸞の字をとられたものです。
親鸞聖人の著書『教行信証』には「愚禿釈親鸞」または「愚禿親鸞」と言う言葉が再三用いられています。
建永2年(1207)年2月に念仏(ねんぶつ)停止(ちょうじ)の宣旨が下り、親鸞聖人は越後の国府に流罪になりました。
『教行信証』の末尾に「禿(とく)の字を用いて姓(せい)とした」と述べてられています。
愚禿というのは、禿は外見は僧の姿であっても、心と行いにおいては俗人と少しも変わらない、あさましい人間であるということを示しています。
その上にさらに「愚」の字をそえられたところに深く自己をみつめられた内省の厳しさがあらわれています。
親鸞聖人が83歳の時に書かれた『愚禿鈔(ぐとくしょう)』には「賢者(けんじゃ)の信(しん)を聞(き)きて、愚(ぐ)禿(とく)が心(しん)を顕(あらわ)す。
賢者(けんじゃ)の信(しん)は、内(うち)は賢(けん)にして外(ほか)は愚(ぐ)なり。
愚(ぐ)禿(とく)が心(しん)は、内(うち)は愚(ぐ)にして外(ほか)は賢(けん)なり」と書かれています。
これは限りない如来の光に照らされてあきらかになった自分自身の愚かさを告白されたものです。
それは同時に真実のみ教えにであって、如来の慈悲に救われる身であったことを心から喜ぶ感謝の表明でもあるのです。