「親鸞聖人の他力思想」4月(後期)

では、その必死の祈りの中は、はたして救いがあるのでしょうか。

今いちばん悲惨な状態に置かれている訳で、

「この私を救ってください」

という願いが、自分のさいごの叫びです。

そのとき、そこに救いがあるのかということが、今の問題です。

 このような状態のとき、人は

「神も仏もない」

と叫びます。

自分にとってどうしようもない最悪の状態が、神も仏もないということです。

けれども、その

「神も仏もない」

と叫んでいる人が、今いちばんほしいのは、実は神さまとか仏さまの力であって、今こそ救ってほしいと願っているのです。

しかしながら、

「神も仏もない」

と叫んでいる人に救いはありません。

ですから、どれほど必死に祈ったとしても、究極的には惨めな終わりを迎えるしかないのです。

これが、人間の最後の姿になります。

 そこで、この者にとって、はたして救いはあるのか、ということが問われることになります。

例えば、山に登るということを考えますと、どのような高い山であっても、相応の努力をすれば頂上にたどり着くことは可能です。

それは山そのものが動かないからで、踏みしめる足場が動かなければ踏みしめて上に登ることができます。

 私たちが

「生きる」

ことができるのは、明日に命があるからです。

今日の命が動かなければ、その今日を足場にして、努力を重ね、明日に向かって生きることができます。

したがって、今日よりも明日、さらに次の日と、良くなろう、幸福になろうとする願いそのものが、人間の生きる姿になるのです。

したがって、人間として生きるためには、努力する以外に道はないといえるのです。

ところが、山に登っている最中に、突然自分だけしぐれて、足を踏み外し、底のない沼の中に落ちたとします。

このとき、努力が可能になるでしょうか。

山に登るときは、努力をすると上に行くことができます。

ところが、底のない沼に落ちたら努力をしても沈むのです。

上に浮くのではなく、むしろもがくばかりでよけいに沈み込んでしまうのです。

これが人生における死の姿です。

臨終を迎えている者には、生きるための努力は不可能です。

努力をしても悪くなるばかりで、最終的には最悪になり、終わりを迎えます。

このような場では、いかに必死にもがいても、どうすることもできません。

これが臨終と向き合っている自分の姿だといえます。