では、弥勒の文において、釈尊はいかなる法を弥勒菩薩に伝えようとしておられるのでしょうか。
その法がまさしく、阿弥陀仏の大悲心であって、名号を聞いて信心歓喜する念仏者は、必ず仏果に至るという
「大利」
の法であり、この法こそ、唯一にして最勝の仏法であるがゆえに、釈尊は弥勒菩薩にこの真理を付属されたのです。
では、衆生から衆生へと伝わるべき法とは、弥陀の心でなければなりませんが、その心にすがたが存在しません。
そこで、その心がそのごとく伝わるためには、心がそのまま姿を現す必要があります。
それが第十八願に誓われている三心と十念であって、名号が十方に響流されているということは、名号を聞いているその衆生の心に、すでに弥陀の大悲心が徹入していることを意味しているのだといえます。
だからこそ、この法の真理が信知される時、それは
「一声名号を称えよ、加奈らが往生する」
という弥陀の名号を聞いて信心歓喜し、一声念仏が称えられる時ですが、この衆生は無上の功徳を具足することになります。
そうであれば、伝承されるべき
「大利」
の法が南無阿弥陀仏であり、その躍動のすがたが一声の念仏です。
だとしますと、行の一念と信の一念の関係は、行の一念から信の一念という流れになります。
一切の衆生を救う弥陀の法は、第十八願の
「乃至十念」
であり、またその本願によって食われるべき衆生の獲信は、願成就文の
「乃至一念」
に明かされるのですが、その弥陀の念仏が、違うことなく衆生の心に伝わるのは、ただ釈尊の説法によるのみですこの釈尊の説法を象徴的に示す言葉が、
「行の一念」
にほかなりません。
『末灯鈔』の、次の文に注意してみたいと思います。
信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
そのゆへは、行と申は本願の名号をひとこゑとなえて、往生すと申ことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり、この御ちかひをききてうたがふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききてうたがはねば、行をはなれたる信はなしとききて候。
また信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申ことをこころうべし。
行と信とは御ちかひを申なり。